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2010年12月21日

アダチ龍光さんのこと:中川家のこと

数日前、大阪在住のアダチ龍光さんのひ孫さんという方からメールが届く。


>中川家の人間です。
>今は大阪に住んでいます。母からひいじいちゃん(龍光さん)の
>事を聞き、携帯で調べたところ載っていたので、書かせていただきました。
母はずっと前から、『おじいちゃんは凄かった』と耳にたこができるくらい
>何度も聞かされていました。
>目の前で手品を何度も見せてくれていたらしいです。すごく優しかったそ
>うです。
>僕もひいじいちゃんの手品をしてる姿を見たことがないので、
>難波にちょっと行って見てきますー。

想像するに年は20代前半か、ヘタしたら10代かもしれない。
たまたま携帯から遁レコサイトをご覧になってメールを下さったようだ。

「難波にちょっと行って見てきますー。」
というのは、「ワッハ上方」こと大阪府立上方演芸資料館(橋本府知事が2008年の就任後の箱もの施設見直しの中で、ワッハ上方も移転の方針を出すが、2009年末「現地存続」となる)の映像ライブラリーに龍光さんの映像が残っていて、1974年8月朝日放送「おーるど寄席」(司会:桂米朝、於:和朗亭)出演。当時78歳の晩年の演技
が見れるということをここに書いたことによります。

すかさず返事をメールしました。(以下、抜粋。一部修正)

>ご連絡ありがとうございます。感激です。
>私はアダチ龍光(阿達(後に中川)一)さんの腹違いの妹の
>孫(私の父方の祖母が龍光の腹違いの兄)にあたります。
>私自身も、龍光さんのことは舞台、テレビともにリアルタイム
>では全く知りませんでした。
>「親や親戚から親戚にアダチ龍光さんという有名な手品師がいた」
>という話を幼い頃から
>聞いていたことを、思い出し7〜8年前から調べ初めてウェブにま
>とめ始めました。
>http://www.tonreco.com/ryukou/
>中川家の方とは、戸籍上の孫にあたるRさん(東京都○区在住)と
>メールでやり取りさせていただいたことがございます。
>お母様はRさんの兄妹の方となりますよね??

>数年前NHKで龍光さんの特集が放送された際にご協力させていた
>だいたのですが、
>その際に取材段階で「勲章や遺品は娘?孫?の女性が管理している」
>というお話が出て参りました。それがお母様にあたるのでしょうか?

>是非、差し支えないところで龍光さんの
>お子様(直接の血族の方はいないとのことですが)、
>お孫様と中川家のことを教えてはいただけないでしょうか?
>よろしくお願いいたします。

次の日、お返事をいただきました。

中川家のことは、数年前戸籍上の孫にあたるRさんとメールでやり取りさせていただき、複雑故それまで全く阿達家側からは見えなかった系図を、かなり具体的に把握させていただいておりました。今回のひ孫さんからのメールはさらに点と点を結ぶ貴重な情報でした。以下転載(一部修正)。

>母はRさんのいとこです。龍光さんの家には母が何度も(小学校〜大学の間)
>行ってたそうです。
>母は龍光さんの長男の次女です。(血はつながっていない。)
>龍光さんの妻、屋恵子さんの連れ子の子供が母になります。
>Rさんの父親には僕も会った事があります。父親はSさんでは
>ありませんか?
>母の弟が一年前、新潟の龍光さんの実家のお寺を訪れて、
>大変、話が盛り上がったそうですよ。
>話が途切れ途切れですみません。

アダチ龍光(中川一)と妻屋惠子さんには、戸籍上2人の子供がいました。
しかし2人とも龍光さんとは血のつながりはありません。

長男が屋惠子さんの連れ子のTさん。
次男が、メールにあるSさんで、屋惠子さんの父親清八さん(江戸時代文久3年生まれ、明治時代に小学校校の校長先生もする)の妾の子(清八さん63歳の時の子)を養子としたということです。

Sさんには、Nさん、そしてメールでやり取りさせていただいたRさんというお二人のお子さんがいるとお伺いしていて、Nさんが龍光さんの遺品を管理しているという話を以前耳にしました。

次男のSさんの系譜はRさんを通じてお話をお伺いしておりましたが、今回具体的に屋惠子さんの連れ子のTさんの系譜を把握できたことは感激であります。

また、今回なんと言っても驚いたのが


>母の弟が一年前、新潟の龍光さんの実家のお寺を訪れて、
>大変、話が盛り上がったそうですよ。


というお話。
半ば断絶状態であったと聞いていた阿達家と中川家の邂逅が昨年あったとは!

私のメールの文面も思わず興奮状態になります。

>そうなんですね!
>それは感激するお話です。
>龍光(中川一)の実家、新潟の多宝寺にお母様の弟さんが
>昨年お伺いしたのですか!?
>お会いしたのは現在の住職、真任(まさと)さんですね。

>真任さんが多宝寺 22代住職
>20代住職の操(みさお)さんが、龍光(一)の弟にあたります。

>龍光(一)の父親天龍(19代住職)の時の後妻の子が、
>私の祖母トキ(故人)です。
>操さんの子が健介さんで21代住職。
>そして現22代住職真任さんに続きます。

>数年前真任さんとお電話でお話させていただいた際は、
>「中川家とはつながりがなくなってしまっている」
>とうかがっていただけに大変うれしく感じております。

パズルのピースがどんどん埋まっていく。
来年は、もっともっと中川家からお話をお伺いする機会を作って行きたいです。

新潟の多宝寺にも行かなくては。。。

で、再来年2012年の龍光没後30年には、どでかいイベントをぶちまけようではありませんか!

いや、来年と言わず、龍光イベント今すぐにでもやりたいなぁ。

【関連コーナー】アダチ龍光さんのこと

yumeshi.jpg


「アサヒグラフ」1973年2月16日号、連載「わが家の夕めし」に掲載。東久留米の自宅で屋恵子夫人と。

2010年10月05日

芸とは諦めること:アダチ龍光さんのこと

「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)の第3章は、さぁさぁ、お待ちかねの龍光さんを追った「『芸とは諦めること』トークマジックの名人、アダチ龍光」であります。

その人生のだいたいのストーリーは理解しているつもりでしたが、イヤイヤイヤイヤしかししかし。全っ然何が違うって、同じストーリーを描くのでも、藤山新太郎氏は、龍光のそばで芸を直接見て、龍光の言葉を直に聞いて、龍光と直に話をした同じプロの芸人です。話の肉付きが違うのです。
何度も書いている気がしますが、これはアダチ龍光バイオの決定版であります。

ここで語られていることの三分の一程でしょうか、光栄なことに私は録音カセットが回る中、藤山氏が編集者とともに龍光について語る現場に同席をさせていただいておりました。(誤解を招くといけません。カセットは会話の記録用に録音されたもので、この本は紛れもなく藤山氏の著作です)

若き日の藤山氏に、龍光の芸の秘訣をたずねられ「諦めることだよ」と答えた龍光。さぁこれから頑張ろうと鼻息荒い若者に「諦めろ」とはあまりにも肩透かしな答え。

確か何かで、龍光が時に演技に失敗した時には「ま、そんな時もあるの」とスルっと次の演技に移っていったエピソードを読んだことがあります。それから数十年経ち、藤山氏は「芸とは諦めること」の意味をはっきりと定義しています。

また、その話芸のコツをたずねられ、「余計なことをいわないことだ」と答えたと言います。確かに龍光の舞台では、つなぎの「エー」や「アー」も無ければ、冒頭の「ようこそいらっしゃいました」や「ごゆっくりお楽しみください」なんて言葉も極力排除されています。演技の途中で言葉に詰まった時も、じーっとお客さんを見渡しながらにやにやしながら黙っている。そしてそこから、客席にクスクスという笑いが起こって。。。気がついたら大爆笑! 実に龍光さんの舞台らしい1シーンです。

この本の中でどこまで記されるのだろうかと興味深かった、奇術協会分裂騒動の詳細や、松旭斎天洋、その弟子の引田天功との軋轢も具体的に描かれています。個人的には、この昭和の奇術師を代表する龍光と天功の光と影のテーマはとても楽しみでありました。

1977年開催された日本奇術協会創立40周年記念公演は龍光は会長として挨拶、天功はトリで鳩出しの演技を行いました。その終演後、天功は何故か自分の車で龍光を送るといい、その車内で執拗に奇術協会の会長職を自分に譲れと迫ったと言います。その時は「エー」「はぁ」を龍光は繰り返したそうです。

天洋が松旭斎一門で独占し不健全な体制で分裂とまでなった奇術協会が40周年まで継続し、プロ奇術師団体として広く発展して来たのは、龍光が(大してなりたくもなかった)会長職を続けて来たからと云っても過言ではありません。「天功はなぜ俺が会長になったのかを理解していない」と龍光は怒っていたといいます。

また、1971年の天覧奇術の際、龍光の後に出演した天功が、後に「アダチ龍光は俺の前座で出演した」と発言したり、1972年の勲五等双光旭日章 叙勲 の際には「年を取ったからもらったんだ」と、天功の困ったちゃん発言も明らかにされます。最後まで埋まることのなかったと思われる龍光と天功の間の溝のわけも、第1章からここまで読み進めることでより深く理解出来ました。
それでもなんだかこのふたりはホント魅力的なんだなぁ。

本章の冒頭でも語られ、私が藤山氏からお話をお伺いして強烈な印象を受けたエピソードが、1982年に亡くなった龍光の通夜に駆けつけた立川談志の話です。

何かに取り憑かれたように一点を見つめ、龍光の芸に関して、芸の凄みに関して1時間以上語り続けたと言います。また、その時頻繁に龍光を「名人」と称したそうです。

「芸の凄み」や「名人」という言葉が正直あまり似合わないような気がする龍光さんですが、「芸とは諦めること」というキーワードから少しだけその意味が理解出来た気がします。

そもそも単なる話が面白い奇術師だったら昭和天皇がその演技を見たいとか、勲章あげようなんて思うはずないですものね。


あ、この章で1点だけご指摘を。
龍光の生い立ちに触れる「弁士を目指してなぜかマジシャンに弟子入り」(P93)に、「昭和28年から29年頃、阿達家の庭で」というキャプションで写真が掲載されています(この写真)。

文脈から龍光の生まれた多宝寺での集合写真とも読めますが、厳密には、

「昭和28年から29年頃、福島県は会津の東長原にある昭和電工株式会社 東長原工場の従業員・家族慰安会に出演し、腹違いの妹である阿達トキの家に宿泊。写真はその時阿達家の庭で撮影。 」

であります。
私のばあちゃん(最前列の左から2番目)、じいちゃんに父親(最前列の一番左)も写っています。

そんなわけでそんなわけで、書き始めたらきりがないのですが、改めまして、これはアダチ龍光バイオの決定版であります。

師匠の木村マリニー、そのルーツの奇術師マックス・マリニーに関しても深く言及がされ、龍光の芸の形成の核も見えてくるのです。

いやいや止まらない止まらない。とにかく読んでみてください。手品好きに限らず、きっと響くものがあるはずです。

少し乱暴な文章ではありますが、第3章「『芸とは諦めること』トークマジックの名人、アダチ龍光」雑感でありました。


【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと


2010年09月29日

奇術師 伊藤一葉のこと

「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)でメインに取り上げられる四人の奇術師の中で、お恥ずかしながら正直もっとも馴染みが薄かったのが、第2章の伊藤一葉でした。

第1章の天功、第3章の龍光はひとまず置いておくとして、第4章の島田晴夫は、天功ほどの派手さはないが、その確かな技術や「世界の」と形容されることが多いことから、その活躍や存在の大きさを記憶していました。

しかし、伊藤一葉は写真で「この人見たことかあるな」と感じる程度(しかもダーク大和さんと混同してました)。流行語となったという、奇術を演じた後にいうセリフ「何かご質問はございませんか?」も、あまり印象に残っていませんでした。

2006年発刊の日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」の奇術師9人のバイオグラフィー「奇術人」にも一葉は掲載されていたんですがね。。。全くもってお恥ずかしい。

一葉は昭和40年代半ばから50年代はじめにテレビタレントとしても全盛を迎えたそうです。伊藤一葉をリアルタイムで記憶するには、私は生まれるのが遅かったかもしれません。と、ともに伊藤一葉の活躍期間が短すぎたのかもしれません。

ただ、それを云えば、龍光さんの活躍だって私は見た記憶が全くないのですが(龍光さんが「テレビで活躍した奇術師兼テレビタレントの元祖」と云われても、まだ今ひとつピンと来なかったりします)、この文章のたたきを書いている途中、Twitterで

 電車内で伊藤一葉に関して書きはじめたら、熱くなってとまらない。

とつぶやいたら、すかさず

 「何かご質問は?」の人ですよね。ナツカシス。

とコメントRTが。

テレビタレントとして輝いた期間は短かったのかも知れませんが、ある年代以上の見る人に強烈な印象を残した方であるのは間違いないでしょう。

さて。
あらかじめスターとなることを約束された星のもとに産まれたと言っても過言ではない天功との対比が本文では多くなされます。

一葉は、父親が興行師であったことから贋天勝一座(飽くまで「にせ」天勝一座。一葉が所属したのは松旭斎天佐・天勝一座。日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」には「ご存じ、元祖にせ天勝」の記載が(P126)。本書で語られる本物松旭斎と贋松旭斎との大らかな交流は実に微笑ましいのです)で働き、裁判官試験を受験していたにも関わらず、一座の穴埋めで奇術師となります。

一座の巡業中に裁判官の合格通知が届いたり、「自分は、本当は小説家になりたい」(一葉は樋口一葉から取ったそうです)と口にしていたと言いますから、根っから奇術師を志した方ではないようです。

その迷いが演技にも表れていたのかもしれませんし、根が明るいとは言えない性格とその生真面目さで、演技からどうしても地味さが拭いきれなかったようです。

本書では「押しの天功、引きの一葉」と記されますが、その引きの演技が活かされるには、「何かご質問はございませんか?」のキメぜりふの発明(発見)を待つまでしばらく掛かりました。

この「何かご質問はございませんか?」でテレビタレントとしても一世を風靡しますが、それから間もなく一葉に健康面での不具合が出ます。

もうとにかくその生涯がもどかしいのです。気が付くと一葉にどんどん感情移入してしまいました。
筆者の藤山氏も「やっと『引きの一葉』が幅広く活かされたはずだったのに・・・」という思いを強くこの章に込めていることが伝わってくるのです。

そんなことを思いながら、蝶ネクタイに黒ブチメガネ、ステッキを持って知的な笑顔をこちらに向けている写真や、日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」のP129に掲載の桂三枝(オヨヨの口をしている)やダーク大和さんと並んだ堂々と落ち着いた表情やたたずまいをした写真を眺めると、「ちゃんとこの人の活躍を見てみたかった」と強く感じます。

筆者の藤山氏が引田天功に続く章で伊藤一葉を取り上げたの理由が、ページを読み進めるごとに理解出来た気がします。

【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと

2010年09月26日

「タネも仕掛けもございません」読みはじめ

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この土日で大きな書店で買いに行こうと思っていた「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)が、金曜の夜帰宅するとポストに。角川学芸出版からお送りいただきました。しかも藤山新太郎先生の直筆のお手紙付き!感激です。

アダチ龍光さんの章はゲラ段階で 拝見をしておりましたが、こうして1冊の本としてまとまると、まったく味わいが違って来るのが不思議。

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ゲラ段階では掲載がなかった写真には、昭和29年頃撮影された私の祖母(龍光の腹違いの妹)宅での集合写真が掲載。こちらは、2006年に日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」刊行時に提供させていただいたもの。
この写真は私も大好きです。


そんな訳で、わくわくしながら冒頭の「はじめに」そして第1章「地獄極楽の狭間を生きたイリュージョニスト、引田天功」を読んでいるところです。

続く第2章では伊藤一葉、第3章でアダチ龍光、第4章で島田晴夫と計4人の昭和の奇術師に焦点を当て、最終章では昭和の奇術師(史)を戦前の松旭斎天勝らの大一座での奇術、寄席演芸での奇術の系譜、古典奇術「手妻」を現代に伝える流れ、そしてナポレオンズ、マギー司郎、Mr.マリックなどテレビで活躍する奇術師まで総括しています。


個人的に一番楽しみだったのが、第1章の引田天功(初代)の光と影、虚と実。

小さな頃「木曜スペシャル」での大脱出シリーズを手に汗握りながら見ていたし、天功監修の小学館入門百科シリーズ「手品・奇術入門」は何度読んだかわかりません。(lilliputさんのサイトに書影あり。私が持っていたのは、第2版19刷の方。第2版32刷以降の初代没後は2代目が引き継いでるんだ、へぇ。)

あの涼しい笑顔。引田天功はホントかっこ良かった。大好きでした。
でも、何かモヤモヤっと実体がつかめないイメージが強かった。そして亡くなってしまった・・・・あれから30数年経って、それが何であったかが、はっきりわかった気がします。

奇術の確かな腕もある。
あの涼しい笑顔、スマートな天性の魅力もある。
一級のスターになりながらも、常に追随する後輩の存在や、映画スター、テレビスターに張り合うよう、自分を大きく大きく見せようとしていた。それが時に輝いて映ることもある、時に空回りをしていた。そしてだんだんと空回ることが多くなり。。。でもこういう生き方もかっこいいかもと思えてしまいます。すごい人間くさい。

(ギャラ2億円で連日出演した大阪万博の下りはちょっとすごい。これを読んでからこのスライドショー動画「EXPO'70 電力館」の0:40〜1:15あたりのスナップ写真を見ると、この天功の自信にあふれた表情にいたたまれない気持ちになってしまいます。)


引き続き読み進めて、自分なりに書き残したいと思います。
藤山氏の文章は昭和の奇術師の人、芸を語りながら、途中そのルーツとなる世界のマジシャンや映画、天一、天勝、そして手妻へと話が膨らんで行くのがまた快感なのです。

これは名著であります。

【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと


2010年09月17日

アダチ龍光さんのこと


書影も掲載!いよいよ発売迫りますね。

「タネも仕掛けもございません 昭和の奇術師たち」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)

アダチ龍光さんの項でちょっぴりご協力させていただきました。龍光さんのバイオの定本となる一冊です。

「アダチ龍光さんのことwiki年表」を更新。1961年(昭和36年)の1月1日〜10日 第196回東宝名人会 出演に関して追記。三平もいる!志ん生もいる! 

前から気になっていたので、設定見直したらiPhoneでも読めるようになりました。失礼いたしました。

そしてそして。
「熊本日々新聞」のサイト「講釈師一代 血涙修業伝」(講談師:宝井琴調)の文中にある、新宿末広亭での、師匠馬琴、落語・雷門助六、浪曲・三門博、奇術・アダチ龍光、漫談・牧野周一、漫才・松鶴家千代若、千代菊などが出演した名人会っていつの開催だろうか?
牧野周一の晩年の舞台らしく、この出演から「数カ月後、先生の訃報が伝えられました」とある。
牧野周一は1975年5月3日没だから、1974年か1975年だろう。

詳しい日付が知りたいのです。

2010年07月25日

パペポTV: アダチ龍光さんの話

以前、ここでも触れた「パペポTV」での上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶によるアダチ龍光さんの話題のシーンを「ニコニコ動画」で発見。

なるほど。
こういうニュアンスでの話だったのね!
実にいいなぁ。

2010年07月18日

「タネも仕掛けもございいません 昭和の奇術師たち」ゲラ届く

写真.JPG


角川学芸出版から今秋刊行の藤山新太郎氏の「タネも仕掛けもございいません 昭和の奇術師たち」(タイトル未確定?:角川選書)から、アダチ龍光さんに関して取り上げた章の初稿ゲラをお送りいただき、拝見させていただきました。

藤山新太郎氏は和製手品、古く「手妻」「和妻」といわれる芸を現代に受け継ぐ方で、現在日本奇術協会 副会長も務めていらっしゃいます。

本書の執筆準備段階の今年の正月明けにお会いをさせていただいた経緯があり、「ついにここまで来たんだ。。。」と感慨深く感じるとともに、これはアダチ龍光バイオグラフィーのスタンダードになると確信をしました。
藤山氏の文章は、構成のうまさといい、明快さといい本当に見事。芸も一流、文も一流。 

生い立ちから、50 を過ぎてからの舞台のみならず、テレビタレントのはしりの一人としての活躍から晩年までの生涯はもちろん、その芸の魅力、楽屋での表情、といった人柄、松旭斎一派との確執、奇術協会の御家分裂騒動、引田天功の闇にも触れられていて実に興味深いのです。
そして、未だ私自身もその核心を実感しきれていない、龍光の「凄み」が人、芸のそばにいた藤山氏の文章から伝わって来るのです。
龍光の「芸とは諦めること」。至極名言。

僭越ながら初稿ゲラに数カ所アカ入れ。
また、私の保有資料や見解と異なる記述も数カ所。でもこれは藤山さんのほうが正しいんだろなぁ。要確認願いということで。
もろもろコメント添えて返送準備完了。

龍光さん以外の方の章も早く読みたいです。
発刊を心より楽しみにしております。

→アダチ龍光さんのこと

2010年04月14日

木村一族

なんとはなしにアダチ龍光の師匠、木村マリニーこと木村荘六の家系をたどっていたら実に面白い。

何が面白いって、荘六の父親の木村荘平(1841年〜1906年)。
この男が実にすごい。
牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開。
葬儀会社東京博善株式会社も設立。現在も神田「博善株式会社」として続いている。アダチ龍光さんの葬儀をこの神田博善が担当したのは単なる偶然ではないと思う。
またサッポロビールの前身、日本麦酒醸造会社も設立。ヱビスビールを発売。
実業家にして、市議会議員をやったり、上野に競馬場を作ったり。

そしてそして、何よりびっくりなのが正妻の他に多数の愛人を持ち、授かった子供が男13人の女17人の30人。

で、作家だったり、俳優だったり芸術面の才能を持って活躍された方が多かったりするのです。

一体誰が誰との子かはひとまず置いておきつつ、追いかけてみます。

●息子
長男:荘蔵(いろはチェーンを引き継ぐが、数年でダメにする)
二男:?
三男:?
四男:荘太(作家)
 ※荘八と同母兄弟
 ※異母妹の四女清子と同棲
五男:荘五(経済学者)
六男:荘六(活動弁士:木村紅葉→奇術師:木村マリニー)
 ※アダチ龍光の師匠
七男:荘七(女形の新派役者芸名;木村春夫)
 ※同部屋だったアダチ龍光が活動弁士を志し相談した。
八男:荘八(挿絵画家・洋画家・随筆家)
 ※荘太と同母兄弟
九男:?
十男:荘十(直木賞作家)
十一男:?
十二男:荘十二(映画監督)
 ※手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エノケンの魔術師」(1934年)もある
十三男:荘十三

●娘
長女:栄子(木村曙:作家)
 ※愛人→のちに正妻岡本政との子
次女:伸子
三女:林子
四女:清子(新劇女優)
 ※異母兄の荘太と同棲
五女:?
六女:六女
七女:七女
八女:八女
九女:九女(クメ)
十女:十女(トメ)
十一女:士女(シメ)
十二女:十二(トジ)
十三女:十三(トミ)
十四女:十四(トヨ)
十五女:十五(トイ)
十六女:十六(トム)
十七女:十七(トナ)


嗚呼素晴らしい哉。木村荘平チルドレン。

【参考】
・wikipedia
さすらいのカンチョーマンの日記「男の甲斐性」


アダチ龍光さんのこと

2010年03月27日

龍光からさかのぼる、木村マリニー、マックス・マリニ、松旭斎天勝の流れ その2

「アダチ龍光さんのこと年表Wiki編」を更新。特に20歳前後の頃を中心に。

しかし、しかし面白い。
龍光が奇術の世界に入るきっかけとなった、師匠木村マリニー。
元々は木村紅葉という名で大阪で活動弁士として活躍。本名木村荘六。

「近藤幸三・著『奇術 その魅力 その世界』には、奇術師・木村荘六について次のように書かれている。大正2、3年の頃、新富座で、ポーランド生まれのアメリカ人奇術師マックス・マリニーに会い、その興行の司会を引き受けることから、木村荘六と奇術とが結びついた」(日本奇術博物館

「荘六は、マリニーの公演の司会を続けるうちにマリニーの奇術をすっかり覚えてしまった。そして大正8年、プロ奇術師としてデビュー。芸名も木村マリニーとした。」(日本奇術博物館

この木村荘六さん。
弟には木村壮八(洋画家、随筆家)、異母弟に木村荘十二(映画監督)がいて、さて次はこの荘十二さん。

彼が、手掛けた作品を「日本映画データベース」で調べたら、監督作品に松旭斎天勝主演のあの「魔術の女王」(1936年)があり驚く。またこんなところでも繋がった!。(他にも「エノケンの魔術師」(1934年)も)

「アダチ龍光さんのこと年表Wiki編」

2010年03月25日

龍光からさかのぼる、木村マリニー、マックス・マリニ、松旭斎天勝の流れ

松田道弘「トリックスター列伝」(東京堂出版)着。
近代マジック小史。お目当てはマックス・マリニについて。

アダチ龍光の師匠木村紅葉が、映画が無声映画からトーキーに移行することを察知して活弁士として限界を感じ、名前を木村マリニーとして奇術師を志したのは、来日中マックス・マリニに付いて通訳というか、演技の代弁をしたことがひとつのきっかけとされています。

この時、身近でマックス・マリニの演技を見た木村は、奇術を自分のものとしたわけです。

松旭斎天一・天勝一座の活動を見ると(土屋理義「マジックグッズ・コレクション」東京堂出版)、同時期に活躍していた読心術師として木村マリニーの名が出てきます(大正9年(1920年)9月11日〜15日 明治座出演:確認は取れてませんが、この時既にアダチ龍光は木村マリニーの弟子入りをして初舞台を踏んだあとです。アダチ壮一の名で出演していた可能性大です)。

龍光さんからさかのぼると、木村マリニーからマックス・マリニへ、そしてその同時代に松旭斎天一・天勝がいたわけです。

わくわくいたします。

2010年03月24日

松旭斎天勝のこと

(以下、なぐり書きラフです。)

元祖女性イリュージョニストとして近代奇術史に名を残す松旭斎天勝。

その美貌故の人気か、確かな技術と和洋折衷のダイナミックな舞台の素晴らしさか。

資料で目にするサイケデリックな色彩豊かなイメージのポスター。

宝塚か、なんたら歌劇団かといった派手派手しい化粧で演技にをする姿が撮られた写真。

松旭斎天勝とは一体何者なのか。

急に気になって仕方がなくなってしまったのです。

2010年1月に水芸・手妻を現代に伝える奇術師藤山新太郎氏にお会いした時、

「奇術師は天一・天勝のような一座を構えて公演する方と寄席に出演するような単独で演技をする方に分かれる」

という話がありました。

長年追いかけている奇術師アダチ龍光はもちろん後者。

「一座を構えて公演する」奇術師のことを私は全く知らないのです。

和妻・手妻と呼ばれる日本伝統の奇術に、西洋マジックを取り入れて、初めて人気と成功を獲得したと言えるのが、天勝の師匠にして、天勝を愛人にした天一です。

天一の弟子にはあの天洋もいます。
手品グッズメーカーの大手として現在も名を大きく残すテンヨーの祖であり、好好爺のイメージも強いですが、一方で晩年まで奇術界での権威にこだわり、龍光を交えた奇術協会分裂騒動を起したとも伝えられる方です。

天洋の弟子には引田天功が。
天功も龍光と常に「光と影」の関係として、時にまばゆいスターとして光となり、時にどす黒い影となって入れ替わり交わったと聞きます。


私は、脈々とつながる、この奇術史マンダラを紐解かなくてはならないのです。ここで、次に松旭斎天勝を知らなくてはいけないのです。

勝手な使命感ではありますが、松旭斎天勝を追いかけてみたいと思います。

現代にも続く松旭斎と、天勝はどうも隔絶したものに感じてならないのです。

いやしかし、奇術協会歴代会長を見ますと、

4代目会長 アダチ龍光
5代目会長 松旭斎天晴・・・・天洋兄弟弟子
6代目会長 アダチ龍光
7代目会長 松旭斎広子・・・・天勝弟子
8代目会長 松旭斎すみえ・・・・天二(二代目天一)曾孫弟子

奇術界の松旭斎の力恐るべし。
松旭斎広子までは追いかけなければならないでしょう。

しばらく松旭斎天勝に恋することに決めました。


【以降参考資料】
・(社)日本奇術協会創立70周年記念誌「70年の歩み」
・季刊「不思議」創刊号(マジックマガジン社)
・藤山新太郎「手妻のはなし 失われた日本の奇術」(新潮選書)
・Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%97%AD%E6%96%8E%E5%A4%A9%E5%8B%9D

・松旭斎天勝「魔術の女王一代記」 到着待ち中
・丸川賀世子「奇術師誕生―松旭斎天一・天二・天勝」 到着待ち中

2010年01月23日

アダチ龍光企画監修エポック社マジックシリーズに関して

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エポック社お客様サービスセンター様より、アダチ龍光さんが企画監修した「エポック社マジックシリーズ」に関する資料をお送りいただきました。

A4ペラ。
おそらく何かの媒体に掲載された広告と思われます。

この一連のシリーズは1970年に発売されたものだそうで、左上に「エポック社マジックシリーズ」という文字とともに、気球に文字をあしらったイラストがキャッチとして置かれています。

その文字は「でっかく行こう! エポック社'70-'71 ジャンボ11」というもの。
1970年から1971年に掛けた同社の販促キャッチフレーズでしょうか。

エポック社マジックシリーズは、以前の記事で「ふじぎな花びん」裏面から判明した12種類
 ・ウルトラスティック 400円
 ・マジックボックス 550円
 ・ハンカチトリオ 300円
 ・ワンダーマット 350円
 ・カラーペイント 350円
 ・ふしぎな花びん 300円
 ・水の落ちないコップ 300円
 ・ミラクルエッグ 500円
 ・スタンダードセット(1) 350円
 ・スタンダードセット(2) 350円
 ・テクニカルセット(1) 300円
 ・テクニカルセット(2) 250円
がまず発売され(「マジックブームを創りあげた既刊12点」という記載がある)、好評のため追加シリーズで3点
 ・われない風船 450円
 ・マジックミラー 450円
 ・カラーボール 350円
が発売されたものと思われます。

メインキャッチコピーは
 「むずかしいマジックかせみんなのものになりました!」

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そして本シリーズとともに、複数の手品グッズがセットになった
 ・ゴールデンセット 1,250円
 ・シルバーセット 850円
も発売されています。

パッケージには子供達に向けて手品を披露する龍光さんの姿が見えます。
驚く子供達の表情が実に良いのです。


右下には、「ミスターマジック・ディスプレイ」と題した「エポック社マジックシリーズ」の店頭販売展示に関しての説明書きがあります。

「おどけた顔のミスターマジックがエポック社のマジックを即座に連想させるディスプレイです」

この広告が、販売店向けに作られたものなのか購買者に向けたものなのか今ひとつわかりませんが、「エポック社マジックシリーズ」の大枠を掴むことが出来る資料です。

私が手元に現物を入手したのは「ふしぎな花びん」のため、先行12種類、続編3種類の全てを龍光さんが企画・監修しているのかははっきりしませんが、ゴールデンセット、シルバーセットのパッケージから、その可能性はとても強いものと思っています。

エポック社お客様サービスセンター様には本当に心より感謝させていただきます。

これだけのシリーズが出ていたこと、続編がリリースされるほどであったこと、「ミスターマジック・ディスプレイ」とといった大変力の入った店頭展示を展開したしたことから、ヒット商品であったことは間違いないでしょう。

この「エポック社マジックシリーズ」が、ギャラがたくさん入って多宝寺に釣り鐘を寄贈したという商品である可能性は非常に高いものと感じています。

アダチ龍光さんのこと


2010年01月21日

アダチ龍光 企画・監修の手品グッズを追え まとめ

「手品グッズの企画・監修で商品がヒットし、そのギャラで自分の生家である新潟のお寺に釣り鐘を進呈した」のエピソード。

果たしてその企画・監修でヒットした手品グッズとは、どこのメーカーから出したどんな商品だったのか?

1月6日
「で、出た! 龍光さん企画・監修の手品グッズ」と思わず興奮してしまったのが、「エポック社のマジックシリーズ:ふしぎな花びん」未開封品の出品。「これが例の手品グッズか」絶対の落札を誓いました。

1月7日
昭和の奇術師に関する執筆のお打ち合わせでお会いさせていただいた藤山新太郎氏の「ヒットした手品グッズは任天堂から出したトランプ手品のグッズだった」のお言葉。
「トランプ、花札メーカーとして老舗の任天堂」
     ↓
「トランプに手品の付加価値を付けて大ヒット」
という話に「さすがは任天堂。当時から目の付け所が違う!」と感激。


1月18日遁レコ on Twitterより)
# 00:33 任天堂 相談窓口にアダチ龍光氏監修の手品グッズに関しての問い合わせメールを送った。どんなことでも情報がほしい。何だったら京都にでも行きます。

# 22:16 自宅に龍光さん手品グッズの件、任天堂お客様相談窓口S氏より回答の留守電。「お問い合わせの件、資料はなく、確認出来ませんでした。」声の様子からは、かなり年輩の方の模様。そして京都言葉。何より響いたのは「『私の記憶では』なかったと思います。」の言葉。誠実な対応に感激。

# 23:08 続いて、龍光さん監修手品グッズに関して、エポック社広報に問い合わせメール。やはりこちらが本命か?

# 23:08 よし! エポック社から発売のアダチ龍光企画・監修「ふしぎな花びん」を落札。

1月19日遁レコ on Twitterより)
17:52 龍光さん監修手品グッズに関して、E社お客様サービスセンターからレスあり。「扱いがございません。他社製品かと思われます」の回答はおかしいんでないの?だって商品発売してること明らかじゃん。N社と随分対応ちがうな。 こういうことで企業に対する印象はガラッと変わりますな。

23:36 「エポック社のマジックシリーズ」に関し再度問合せメール。今回はシリーズのひとつ「不思議な花びん」の画像を添付。

23:36 お伺いしたいのは、1.いつ頃発売されたモノか 2.「エポック社のマジックシリーズ」は何種類くらい出されたのか 3.シリーズは全てアダチ龍光氏監修・企画なのか、他の手品師も関わったのか ・・・お手数お掛けいたします。

1月20日遁レコ on Twitterより)
19:57 E社より「資料がございましたのでお役にたつかわかりませんがお送りいたします」のお返事!

23:39 ヤフオクで落札できたアダチ龍光さん企画監修手品グッズ着!!!
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さて。
画像は、ヤフオクでゲットすることが出来た「エポック社のマジックシリーズ:ふしぎな花びん」。

裏面には、「企画・監修=日本奇術協会会長 アダチ龍光」の文字。その横の「秘密の小箱には、アダチ先生実演のタネあかしがはいっています。」のコピーがそそります。しかしこの未開封品。開けるのはもうしばらく待つことにいたします。

右下に「エポック社のマジックシリーズ」の他の商品群のタイトルが掲載。
 ・ウルトラスティック
 ・マジックボックス
 ・ハンカチトリオ
 ・ワンダーマット
 ・カラーペイント
 ・ふしぎな花びん
 ・水の落ちないコップ
 ・ミラクルエッグ
 ・スタンダードセット(1)
 ・スタンダードセット(2)
 ・テクニカルセット(1)
 ・テクニカルセット(2)

全12種類。
「スタンダードセット」「テクニカルセット」辺りが、トランプものであるのだとすると、藤山新太郎様のお話ともつながってきます。
(「任天堂も出していたのでは?」という思いもまだなきにしもあらずですが・・・)

この「エポック社のマジックシリーズ」がくだんの手品グッズなのか、そもそも「ふしぎな花びん」含む全12種類全てを龍光さんが企画・監修していたかも現時点ではわかりません。

エポック社様からお送りいただける資料にその答えが!?
心待ちにしております。

2010年01月14日

関東大震災と龍光さん

新潟のお寺に身を寄せたとされる1923年(大正12年/当時27歳)の関東大震災の被害を受けた際の様子を、「芸双書4 めくらます−手品の世界−」(編者/南博、永井啓夫、小沢昭一  白水社 1981年)の立川談志との対談からまとめました。

龍光さん、かなり詳細に語っています。

アダチ龍光さんのことWiki編でご覧下さい。


関東大震災際、会津若松経由で実家に帰ったことは間違いなさそうです。

しかし、実家での様子は全く語られていません。
しかも翌月には信州は松本に仕事で出てしまっています。

また、会津若松のどこに「紺サージの服」の入った洋服のカバンや手品の道具を預けていたかも謎です。

私の婆ちゃん家なのか?会津に嫁いだ別の兄弟なのか?

別途情報が必要です。
ふー・・・今日はここで力尽きました。

2010年01月13日

龍光さんのこと

和製手品、古く「手妻」「和妻」といわれる芸を現代に受け継ぐ藤山新太郎氏日本奇術協会 副会長)と先週お会いをさせていただきました。

角川学芸出版の角川選書から今年秋刊行予定の昭和の奇術の歴史と人をテーマとした書籍の執筆のためアダチ龍光さんの、特に実家である新潟のお寺(多宝寺)との関係を整理したいとのお話でした。

角川学芸出版の単行本編集長のI氏と今回の出版企画の実現を進めたY氏(ご連絡いただいたのもY氏からでした)も同席。

藤山氏は、コミックバンド「スイング・ボーイズ」のメンバーで後に漫談家として活躍する南けんじの息子さんでもあり、幼少の頃から舞台に立ち、龍光さんとの関係はお父さんだけでなく、藤山氏も大変深いものがあります。

とにもかくにも本当にこの日は、貴重な時間を過ごさせていただきました。

私がいくら龍光さんに関して、本や資料で情報を追いかけることができても、藤山氏の口から語られるのは、長年そのそばで話を聞いたり、一緒に舞台に立ったり、楽屋でそばにいたりした当人の言葉です。

藤山氏の記憶力の明解さ、語られるエピソードの詳細さに驚くばかり。それが饒舌にキラキラと語られます(プロの芸人さんに対して失礼ですが・・・)。

全く伺い知れなかった龍光さんの姿や、これまで点だった知識がつながったり、肉付けされたり・・・本当に夢のような3時間でした。

お伺いした内容は一度整理したいと思います。
とてもとても書けない話もございますが・・・(笑)。

私のタスクは、龍光さんの実家である新潟のお寺(多宝寺)との関係。
龍光さんは、震災時をはじめとして、新潟に数回戻っているとされています。

内、1944年(昭和19年/48歳)には、空襲で家を焼かれて新潟に疎開し、村役場で戸籍主任として勤務していたと龍光さん本人も語っています。

20歳前後で勘当された龍光さんはこの時、実家の多宝寺に身を寄せていたのか?

勘当は解けていたのか?

それとも、実家ではないところに居を構えていたのか?

そして、公務員の仕事はだれが斡旋したのか?

この辺りが、はっきりしないのです。


さて。
私は丁度この3連休で実家に帰省をしたのですが、叔父に会う機会がありこの質問をぶつけてみました。この叔父は、若い頃2回ほど当時板橋にあった龍光さんの自宅に泊めてもらったことがあるということでした。

「はっきりしたことは言えないが・・・」

と前置きした上で、

「頻繁に出入りすることはなかったにせよ、決して実家のお寺と龍光さんの関係は悪くなかったはず。特に父親の天龍がなくなった後は、勘当は解け、数回新潟に戻った際も実家に身を寄せていたのではないか」

という見解でした。
これは藤山氏とお話しさせていただいた際も同様の推察をしました。

やはり新潟のお寺(多宝寺)に直接当たってみなければなりません。

しかしお寺の現住職は、龍光さんのご兄弟のお孫さんですし(以前お話させていただいた際も龍光さんの記憶は、幼少期のものでした)、兄弟である祖母も十数年前に亡くなっています。

直接情報を聞ける方がどんどん少なくなっているのがくやしいですし、だからこそ急がなくてはならないのです。

手紙を書くことにします。

ちなみにちなみに、ここで書いた、ギャラがたくさん入って多宝寺に釣り鐘を寄贈したという「アダチ龍光手品セット」のエピソード。

この手品グッズの販売元は任天堂だったという藤山氏の談がありました。

花札、トランプメーカーだった任天堂が「同じトランプでも何か付加価値を付けて売ろう」と商品化したのが龍光さん監修の手品ネタをセットにしたトランプ。

これが売れに売れたといいます。
さすがは任天堂。当時から目の付け所が違います。

これも任天堂広報に確認だな。


さぁ、終わりなき旅はまだまだ続きます。

アダチ龍光さんのこと

2010年01月06日

で、出た! 龍光さん企画・監修の手品グッズ

噂には聞いていた龍光さん企画・監修の手品グッズがヤフオクに出てきました。

「エポック社のマジックシリーズ」です。

今回出品されているのが「ふしぎな花びん」。

オーソドックスなネタであります。

しかし、そのようなグッズかかつて出ていたという話は聞いていたものの、こうして現物を画像で突き付けられるとたまらんものがあります。

一体シリーズとして何種類くらい出たんでしょう。

なんてったってこれが売れに売れて、実家のお寺に鐘を寄贈したというんだから。

次の年、税金の額が多くて借金して制税金払ったっていうくらいなんだから。

とにかく気になります。

エポック社の広報にでも連絡をとってみようかしらん。
そんなこんなはここに以前書きました。
http://www.tonreco.com/ryukou/10.htm


私が攻めで落札に走るのか、こうして画像が手に入ったことで満足出来るかはさておき、とにもかくにも龍光さんコーナー、wiki版をグイグイ更新しています。

今後ともひとつご期待下さい。

2010年01月05日

雑記

龍光さんの資料をまた整理し始めました。

うーん。
なんとも良い記事です。

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正月は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし

むかし寄席へ行くと、必ず誰かがこの歌を枕に使った。高校生の時分から正月はたいがい寄席に行った。近いところで人形町の末広、新宿、池袋、日比谷にも出かけたが、上野鈴本だったか、奇術のアダチ龍光師匠がぐでんぐでんに酔っぱらって高座に上がったことがあった。お正月のことだから朝から飲んでいたのだろう、誰の目にも師匠の酩酊は明らかで、舞台の龍光に楽屋の方から心配の声がしきりだった。
「だいじょうぶだよ、バカヤロー」と、龍光は楽屋に向かって答えた。
これは芸だと思った。
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http://paul-klee.jugem.jp/?month=200801

wikiを少し更新しました。
http://www.tonreco.com/ryukou/
まだガンガンいきます。

2006年12月16日

奇術協会記念誌が届いた

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ダーク広和氏より日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」が届きました。

本書のアダチ龍光さんのバイオグラフィー記事に微力ながらご協力させていただいたことがございました。

去る12月3日に目白は椿山荘で開催された「日本奇術協会創立70周年記念 第16回奇術の日・交歓会」で配布されたもので、上製本、函入り、約250ページの豪華本。

限定600部のシリアルNo.4を頂戴するとは何たる光栄。


いきなり、昭和15年の奇術協会第1回集会での集合写真に度肝を抜かれました。
龍光さんはもちろん、天勝(初代、2代目とも)、天洋もみれるすごい写真。

そんな珍しい写真、ポスターがグラビアに踊る「資料に見る歴史」。

河野洋平の祝辞に、現奇術協会会長の北見マキの挨拶文に続いては奇術協会ゆかりの奇術師9人のバイオグラフィーを見たこともない写真や資料とともに掲載する「奇術人」。
松旭斎天一、松旭斎天勝、松旭斎天洋、石田天海、そして龍光、ダーク大和に伊藤一葉など。。。

奇術論「芸談」では、「テレビと奇術」と題した澤田隆治とナポレオンズの対談が秀逸。

奇術協会の歴史、活動、会員(奇術協会相談役でもあるマギー司郎が「影響を受けたマジシャン、好きなマジシャン」に師匠であるマギー信沢に続いて、龍光の名を挙げています。)、そして詳細な年表。

奇術の歴史に関する資料として一級品であります。
取材・執筆・編集を担当されたダーク広和氏の尽力に頭が下がります。

大切に活用と保管をさせていただきます。
協会創立70周年本当におめでとうございます。
日本奇術協会のますますの発展をお祈り申し上げます。

【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと


2006年09月28日

龍光さんと阿達家集合写真

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先日父親から封書が届いた。

何事かと封筒を開ければ、先日のダーク広和氏との日本奇術協会創立70周年記念誌で龍光さんを取り上げる件の企画協力の話を知って知らずか、祖母の家にあると聞いていた龍光さんとの家族集合写真が同封されていてひっくり返った。

今もまだその名残が残っているまさに「ばぁちゃんちの庭」。

右端で龍光さんが自信に満ちた実にいい顔で正面を見つめている。

そして会ったことのないじいちゃんに、亡くなったばぁちゃん、ばぁちゃんの母親に、自分の親父におじさん、おばさんらが写っている。


昭和28年〜29年頃、福島県は会津の東長原にある昭和電工株式会社 東長原工場の従業員・家族慰安会に出演し、腹違いの妹である私の祖母であるトキの家に宿泊した際、阿達家の庭で撮影したモノだそうです。

龍光さんの後ろに写っているのは私の祖父の七良で、昭和29年8月に亡くなっているので昭和28年〜29年7月頃の写真ということになります。

何とも云えず感慨深い思いになりました。


ダーク広和から原稿の第1稿が到着して確認させていただいたり、新しい事実に感心したりとやりとりさせていただいております。

B4版の冊子で写真満載で5ページほどの特集。
なかなかの読み応え見応えです。


【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと

2005年07月14日

アダチ龍光さんと豆本ブーム

手品師であり、奇術古書専門店レッドスケルトン店主でもある、たなかまさのぶ氏よりアダチ龍光さんが日本奇術協会会長の肩書きで監修した

「遊びの豆本シリーズ2/まじっく」(北の誉酒造)

を寄贈いただく。

北海道の北の誉酒造(株)が、お酒の付録に付けたと思われる豆本シリーズの1冊。

 「遊びの豆本」は全部で12冊のシリーズ。そろえて、おおらかにお楽しみ下さい。

のコピーが素敵。

そんなわけで、「遊びの豆本シリーズは」全12冊あり、「頭の教室」が多湖輝監修、「手相・人相」と「性格判断」が浅野八郎監修というのは分かるとして、「駄じゃれ」が赤塚不二夫監修というのがそそられる。

また俳優の二谷英明が監修するのは「ひとり遊び」。これがよくわからない、いやしかしめちゃめちゃ読みたい。

さて、本題の龍光監修(本書での表記は「竜光」)「遊びの豆本シリーズ2/まじっく」は、イラストと、文章で「硬貨、降下せず」「ビックリトックリ」など14タイトルの手品を解説する内容。

たなか氏が北の誉酒造にこの豆本について問い合わせたところ、社内に覚えている人が全くいないとのことで、おそらく昭和40年代後半に配布されたものらしい。

確かに、巻末のポラロイドカメラプレゼントの告知を見ると、締切が昭和49年1月20日となっている。昭和48年、1973年に配られたものと想像できる。

また、プレゼントの発表が「北海道新聞朝刊当社広告中にて」とあり、結構な豪華メンバーを監修に揃えているのに、配布はおそらく北海道限定。やるな、北の誉。

「日本の古本屋」をはじめ、いくつかの古書店サイトを当たったところ、北の誉は昭和50年に「北の誉豆本歌謡全集」という唄本も出している。


豆本といって私がまず思い出すのが、澁澤龍彦などが参加したサントリーの「洋酒マメ天国」

(澁澤は29巻の「NUDEのカクテル」著。今は全集などで気軽に読める。が、この豆本には写真が多数掲載されているらしく、やはり現物ょ入手しなきゃ・・・)
これが昭和40年代前半から半ばに掛けて配布されたもの。

この時期、お酒の業界で、豆本配布が流行ったのだろうか?これまたとても興味深い。(2005.7.14.)

2005年01月05日

龍光さん人気です

昨日の「ものしり一夜づけ新春スペシャル・マジックの世界舞台裏」のディレクターを務めた城さんからお電話を頂戴する。

もう私からは
「面白かった」「良い番組でした」「興奮しました」
みたいな感情を伝えることしか出来なくて少し恥ずかしいです。

城ディレクターの言葉からは、ひとつの番組を作り上げた充実感が伝わってきて素敵ったらありゃしない。

同世代の人間がやりがいを持って物事に打ち込んでいる、充実感を得ている・・・うん、何だか良いです。社交辞令抜きに私も本当に一度お会いしたいです。


昨晩から今日にかけての遁レコサイトは「アダチ龍光とはなんぞや」「天覧奇術ってなんぞや」というお客様がたくさんであります。

こんな日記もあって面白かった。


大抵の日々アクセストップは遁レコサイトのトップページだったり、クリテツさんのテルミン日記なのだけれど、堂々圧倒的トップが「アダチ龍光さんのこと」。やはりNHKってのはすげぇな。


ちなみに再放送も決定しているそうです。

 1月8日(土)16:35〜17:30 NHK総合 Gコード(520309)

2005年01月04日

いよいよ本日放送です!

アダチ龍光さんの天覧奇術のエピソードが再現ドラマとともに取り上げられるNHKの「もの知り一夜づけ」の放送が今晩となりました。

いやはや楽しみです!

 1月4日(火)23:00〜23:45 
 NHK総合 Gコード(70297)
 「ものしり一夜づけ新春スペシャル・マジックの世界舞台裏」
 出演/島田晴夫、前田知洋、山上兄弟他
 華麗なマジックの舞台裏や伝説のマジシャンのお宝映像などを紹介。


てじにゃ〜にゃ!

2004年10月09日

天覧奇術のカセットを探せ9

家に帰るとNHKのアナウンサーの「フルヤ様」から留守電が。

NHKのサイトをあたったら手品師の格好をしたフルヤアナウンサーを発見。
http://web.archive.org/web/20041009225557/www.nhk.or.jp/anq/bnumber4/bn1004.html

間違いなく古谷敏郎アナウンサーでしょう。

今回の企画のもともとの発起人だそうで、数時間後改めてお電話を頂戴し、長話。

天覧奇術にはアサダ氏以外の弟子、龍一、光一が同伴してステージに立っていたのは間違いなく、その際、龍一がカセットを回してしたと。それが今回探しているカセットとなるわけです。

以前も書きましたが、天覧奇術の映像には確かに龍光の後ろに2人のアシスタントが映っておりまして、それが龍一、光一であったわけです。

こちらも以前書いた、龍一さんが亡くなっているかは不確かな情報でした。
光一さんは手品師を辞めて音信不通だとか。

カセットに関して。
本人があれだけ喜んでいた天覧奇術です。火葬の際にお棺の中に一緒に入れられたのではないかと云う説も。うん確かに一理あります。


また、
「めくらます/手品の世界(芸双書4)」
南博 永井啓夫 小沢昭一編 (白水社刊/1981.6.10初版)

という本に立川談志と龍光さんの例の3時間対談テープの一部が文字おこしされ収録されているという話を聞き、電話の後、早速「日本の古本屋」
http://www.kosho.or.jp/servlet/top
で見つけ発注。

また「龍光さんの写真を探している」との話を聞きました。
当然、私が「どうぞ自由に使って下さい」という写真は持ってないですが、借りれそうな思い当たる節を電話の後、メールでまとめて送りました。

うわぁ、何だか番組が完成に向かってますねぇ。
(つづく/2004.10.9.)

2004年10月08日

大宅壮一文庫から龍光さん関連記事届く

とても数時間では、まとめきれません。
知らなかったこと多数でわくわく。

ひとまず年代順に記事を整理。
初めて知ったエピソードを途中まで書き出しました。

●1966年8月21日 アサヒ芸能
吉行淳之介対談 連載47
タネも仕掛けも変わります
奇術の客寄せ戦術あの手この手で50年
※住所・・・・北区中十条3の20の記載


(1971年・・・天覧奇術)


●1973年5月3日 週刊大衆
男の履歴書5
買った女が一千人 手品氏・アダチ龍光


●1973年 婦人公論
私自身のタネあかし
※木村マリーニ一座、4〜5人で奇術だけの興行。樺太、朝鮮、台湾にも。1回旅に出ると1年は掛かった。
※結婚は30歳の時。


●1973年12月 潮
奇術、漫才、講談の世界の哀歓


●1974年1月 噂
うわさの検問所22
天皇までダマした手品師
ホスト
玉川一郎
近藤日出造
ゲスト
アダチ竜光
※木村春夫=本名 荘七、木村荘八の兄弟。
※役者時代、北海道に2年。1日仕事すると55銭。120円貯める。小樽の洋服屋で紺サージの三ツ揃いを55円で購入。靴からワイシャツ、カバンを揃える。一度実家に帰り、大阪の木村マリーニのもとへへ。しかしもう弁士をやめてた。「」
※木村マリーニ後に奇術をやめ、写真屋に。龍光もアルバイト。


●1974年4月27月 女性自身
ジャンボ企画 2
天皇、大いに笑う!
司会 橋本明
出席者
 三遊亭円生
 引田天功
 宝井馬琴
 アダチ竜光


●1974年6月27日 アサヒ芸能
幽霊大百科
コメント・・・下半身のない父の霊


●1974年7月20日 週刊読売
連載32 ぐうたら先生 冒険 熱血 激烈 対談
タネわかって奇術見ててもまた迫力あるもの
 →遠藤周作 「ぐうたら対談」の元


●1975年3月 小説サンデー毎日
苦心研究研究苦心対談
右か左か時計からパン
ホスト 吉行淳之介
ゲスト アダチ龍光
→「躁鬱対談」の元


●1976年9月23日 アサヒ芸能
芸と人 型破り人生
若いころには女郎とバクチ
アダチ竜光80年の粋な手さばき


●1977年1月13日 アサヒ芸能
極付「好色の女」大特集 コメント


●1977年6月21日 週刊漫画サンデー
近藤日出造・杉浦幸雄の歩く座談会・・・398
今週のゲスト アダチ竜光
これが本当にモテたというもの


●1978年1月 新評
人間模様・喜劇人たち
アダチ龍光・八十一歳・現役
「手が震えぬうちは舞台に立ちます」
※お宅は東久留米駅からほんの一、ニ分のところにある。駅前商店街の真裏。ここに越してきて11年。
※せっかちにエコーを吸っている
※父親は寺を継がせるつもりは無かった。継ぐつもりもなかった。
※上京時は会津を経由した。姉が金を工面した。会津で銀の時計を買った。
一度実家に戻り鉄道学校に行くため上京したのはこの後。
※役者時代、友人の女形、木村春夫に活動弁士になりたいと相談。春夫の兄貴が大阪千日前の映画館、敷島クラブで主任弁士をしていた木村紅葉。紹介状を書いてもらった。それが大正8年か9年。
※役者時代、北海道に2年。1日仕事すると55銭。120円貯める。
※木村紅葉、荘六(マリーニ)と名を変えて弁士をやめ、魔術の道へ。
※1〜2ヶ月稽古して、浜松の歌舞伎座で初興行。
※それから2〜3ヶ月で、月給35円
※7年木村の元で弟子をした後、東京の深川常盤亭の席亭が元締めの東西会(東京の芸人と大阪の芸人合同の組織)に入る。当時26歳。客に受けすぎて10日でクビ。
※木村とともに台湾、地方巡業。
※最初の芸名は、アダチ荘一(荘六の一番弟子)。後に高峰筑風(高峰三枝子の父)が「それは売れる名前ではない」と龍光と名づける。
※地方仕事が少なくなり、大阪の吉本興行に所属。のんき節の石田一松と大阪、京都、神戸、四国などを巡業。
※1928年に吉本で音曲をやっていた芸名、国野愛子と結婚。しばらく共稼ぎ。
※大卒の月給が50円の時代に給料100円。余興で30円、吉本と折半。
※1944年空襲で家を焼かれ郷里に疎開。村役場で戸籍主任。月給65円。
※石田一松が代議士に。終戦当時、東京への転入が難しかった。石田が手を回し、三木元首相在籍の「国民協同党」の党員という名目で上京。
※1945年から落語協会に所属。人手が足りないと寄席に駆りだされる。当時円生、志ん生はまだ満州から復員してなかった。しかし当時は客入りに応じたギャラ制度。3日で10円ということも。


(1978年・・・脳出血で倒れる)
(1982年10月23日午前8時15分・・・・没 急性心不全)

●1982年10月26日 週刊平凡
チョビひげの奇術名人
アダチ竜光さん大往生

●1997年12月13日 週刊現代
談志百選第6回
アダチ龍光

(2004.10.8.)

2004年10月05日

天覧奇術のカセットを探せ8

昨日、NHKディレクター氏から、龍光さんの墓のある浅草の萬隆寺への取材報告を聞き、複雑混迷極まりない状況にかなりへこむ。
「この件に関して深入りするのはやめるべきなのでは」という気持ちに。

私の祖母が「龍光は晩年悪いのにつかまった」「晩年は不幸だった」と云っていたと父親を通じて聞いていた意味が少しわかった気が。いやいやまだまだわからないことが多すぎるのですが。

さて、先ほど龍光さんの実家の多宝寺の住職の阿達真任(まさと)さんとお話をさせていただきました。

改めまして整理いたしますと多宝寺の歴代住職は

 1.龍光さんの弟(故人)
 ↓
 2.ケンスケさん(故人)・・・奥さんは健在
 ↓
 3.真任さん

となります。

私から
 ・アダチ龍光さんについて話が聞きたい
 ・天覧奇術のカセットの所在を知りたい
 ・中川家の連絡先を知りたい
 ・正月にNHKで取り上げる
と意図をお伝えいたしますと開口一番

「いやぁ、正直私は良く知らないのです」

というお言葉。また突然の遠〜い親戚筋を名乗る男からの電話で、初めはとても怪しんだことでしょうが、色々とお話を聞かせていただきました。

龍光さんが、実家に帰ることは本当にまれだったらしく、母校である鹿瀬小学校100周年記念で帰郷した75年5月が最後ではないかということです。真任さんは当時高校生で「酒盛りをしていたことを漠然と覚えている」とのお話でした。

その辺の話は地方紙「新潟新報」2004年6月20日の連載「幕下りるとき」の龍光さん特集でも真任さんが取材に答え、書いてあります。

>記念式典に出席、トランプ奇術などを披露した。
>実家に泊まり、「おやじと一緒に喜ん
>で、ねじりはちまきで肩を組んで飲んでた」

というエピソードも掲載されています。

「『新潟新報』の記事も読みましたよ」

と言う話をしていると。。。

「で、もう一度貴方が誰だか説明してくれない?」

と言われ、

「あ、はい、龍光さんの腹違いの妹の、会津の広田の阿達トキの孫です」

「ああ、トキさんね。はいはい。なるほどなるほど。で、何で貴方が龍光さんについて調べてるの?」

「いや、手品好きで。で、身内に龍光さんがいることを数年前思い出して、それから色々調べるようになりました」

「で、貴方はNHKの人なの?」

「いえ、違います。」

「何で貴方がNHKの協力をしてるの?」

「龍光さんについて調べたことをインターネットに書いているのですが、それをNHKのディレクターさんがご覧いただいて、連絡をいただいたのです。私も興味がとてもあるので、出来る範囲で調べています」

「ああ!ひょっとしてそれがあんたか!!」

「へ??」

前述の「新潟新報」から真任さんが取材を受けた際、記者さんが、龍光さんについて事細かに書かれたWebサイトのプリントアウトを持ってきて、

「アダチ某という人が龍光さんについて調べてインターネットで書いているが知っているか」

と聞かれたそうです。紛れもなく私・・・その「新潟新報」をオークションで高い金出して買っている私・・・。大笑いです。

そんな感じで、この辺りから少しずつざっくばらんにお話していただけるようになった気がいたします。

「じゃ、貴方も阿達なんだよな」

「もちろんです」

「血も繋がっているんだよな、へぇ〜」

なんてな会話も。


さて、本題に戻ります。

龍光さんの葬儀には、父親のケンスケさん(故人)が参列したそうで、しかし「それ以降中川家とは音信不通。遺品といったものも一切残ってない」

というお話でした。

龍光さんが多宝寺に遺したモノと云えば晩年「子供向け奇術25種」というおもちゃを発売し、大儲けして実家に寄贈した釣り鐘くらいだそうです。これは以前にも書きました。
http://www.tonreco.com/ryukou/10.htm


例の「おもいっきりテレビ」の「今日は何の日」で龍光さんの命日を取り上げた際も真任さんが取材を受けたそうで、「丸一日色んなところを案内して、お昼まで御馳走して、どっちが取材してんだかわからなかったよ」なんてことも仰っておりました。

今回取り上げる「物知り一夜漬け」という番組を真任さんはご存じで
「それは楽しみです。カセットが出てくると良いですね。頑張って下さい」
と仰っていただけました。そんな住職のお言葉にジーンと来ました。

また最後に

「是非これを機に今後とも宜しくお願いいたします。一度お伺いさせて下さい」

とお伝えして、電話を切りました。うん、電話して良かった。

また、これはメモとして・・。
龍光さんの奥さんは屋恵子さん(新潟新報の記事より)というお名前、、養女は真任さんの記憶では(少々曖昧なご様子でしたが)「しげ」というお名前だそうです。

カセット最後の望みははやはり中川家か。。。

NHKディレクター氏からメール。

「龍光さんのお墓のある萬隆寺から聞いた中川さんへ何度も電話をしているが全く繋がりません。もし繋がっても期待薄ですが、とにかく一度、話をしたいところです。」

とのこと。

何か手掛かりが出てくることを期待してしてますが、あの複雑な人間関係から察すると遺品が出てくる可能性は微妙でしょうか・・・。

しかし・・・。
一般人の死ならいざ知らず、それだけの有名人の死です。
カセットのみならず、手品の道具などの遺品が、果たして全く訳の分からないところに消えてしまうなんてことがあるのでしょうか。

この点の不可思議さがすごく気になってきました。

多宝寺の真任住職は「奇術協会にないのかい?」と仰ってました。
でも、もしそうだったとしたら、ディレクターさんが取材しているお弟子さんのアサダ二世さんが知らない訳がないよなぁ。


でも住職のご意見も一理あるよなぁ。


さて。
大宅荘一文庫より見積がFAXが届く。
40枚を超えるコピー、つまり見開きで80数頁というなかなかのボリューム。しかし価格は5千円ちょいと思ったほど高くなく、オンラインで即入金処理。何か新しいエピソードが見つかると良いのだけれど・・。

(つづく/2004.10.5.)

2004年10月04日

めくらますが来た

数日前届いた

 芸双書4 めくらます−手品の世界−
 編者/南博、永井啓夫、小沢昭一
 (白水社) 1981年刊

を読む。

例の、立川談志が龍光さんのバイオグラフィーを聞き出した3時間テープの一部文字興しが収録

されているのです。

先日NHKの古谷アナウンサーから教えていただいた1冊です。

談志と龍光、とても親密な関係だった2人です。
鰻屋でざっくばらんに話をしている感じが伝わってくるのです。

新潟のお寺で生まれて、車掌に憧れて東京に出てきて、女形の役者やって、活弁師になろうと大阪に行ったら師匠が手品師に転身してて、自分もその道を志すことにした。

といったお馴染みのエピソードも、微に入り細に入りで、これが面白い。

(龍光さんは大正10年と言ってますが)大正11年に上野で開かれた平和紀念東京博覧会
http://www.tanken.com/heiwakinen.html
で、「アイヌの熊祭りや実写映画の説明員をした」なんてエピソードが出てきたりしてぐっと来ました。

天覧奇術に関しての言及は、掲載されていないのが残念。

また先日大宅荘一文庫から取り寄せさせていただいた雑誌「新評」の1978年1月「人間模様・喜劇人たち アダチ龍光・八十一歳・現役」も龍光が語るバイオグラフィーとして詳細度が非常に高かったのです。

この2つの内容を合わせてまとめれば、アダチ龍光の生涯を時系列に沿ってかなり細かくまとめることが出来そうです。

そんなこんなでお陰様で「アダチ龍光さんのこと」
http://www.tonreco.com/ryukou/
を書き始めた2年前から比べると、信じられないくらい龍光さんのことが色々わかって来ました。

まだ内容をまとめきれていないネタや資料はこのページ
http://www.tonreco.com/ryukou/bunken.htm
だったり、ここ1ヶ月の「天覧奇術のカセットを探せ」シリーズでメモって来ました。

嗚呼、まとめたい、整理したい!

誰に頼まれている訳でもないのにねぇ。
一体私は何に突き動かされているのだろうか。。。

でもやりますよ!近い内に。


最後に。
「めくらます」は、手品、奇術の歴史、証言などなど資料満載の名仕事。元祖セクシーマジシャン初代松旭斎天勝の写真から始まり、初代引田天功の奇術論、マギー司郎にも触れられた充実の1冊であります。

2004年10月03日

天覧奇術のカセットを探せ7

ここ数日の動きを。
遁レコアダチ龍光特別取材班の独自調査により、大宅壮一文庫
http://www.oya-bunko.or.jp/
保有雑誌に1966年〜1997年の龍光さん関連記事16件が見つかりました。遁レコ保有のものを除き15件の入手手配をいたしました。

特に1973〜4年に記事が集中しており、天覧奇術に関する新しいエピソードが見つかればと期待しております。


またNHKディレクター氏より、

「龍光さんの葬儀が行われ、お墓もあるという寺が○○にあることが分かりました。
●●●寺です。tel.0×3−3×4×−5×0×
明日、電話してみます。」

との連絡(それっぽく遁レコ一部伏字)。

龍光さんの墓ということは中川家の墓。お寺からお墓の現在の管理人を聞き出せば、中川家の情報が確実につかめるではないですか!

うぉ〜!これはすごい進展!


また、NHKディレクター氏に確認したところ、「アサダ二世さんの話で、龍光さんの養子はやはり女性」でした。

さぁさぁいよいよクライマックスか!?

(つづく/2004.10.3.)

2004年09月30日

天覧奇術のカセットを探せ6

龍光さんの実家、新潟県は鹿瀬の多宝寺に電話。
「オレオレ詐欺」ならぬ「会津の広田の阿達トキの孫の勝則です詐欺」だと思われないかドキドキしましたが、快く応じていただけました。

ところが、今日から日曜日まで行事ごとが立て続けで大変お忙しいことで、

 ・アダチ龍光さんについて話を聞きたいこと
 ・一番の目的は天覧奇術の録音カセットを探していること
 ・中川家の情報はないか

と用件の要点をお伝えし、来週にでも改めましてお電話させていただくことにいたしました。

●多宝寺の歴代住職

1.龍光さんの弟(故人)
 ↓
2.ケンスケ(故人)・・・奥さん(健在)
 ↓
3.マサト

現在のご住職であるマサトさんにまずはお話が聞けることになりそうです。
わくわくです!
(つづく/2004.9.30.)

2004年09月29日

天覧奇術のカセットを探せ5

本日家路に就く電車内、ふとひらめいた!
これだけの有名人なら亡くなった際、新聞のお悔やみ欄に
・通夜の場所
・告別式の場所
・喪主の名前
などの掲載があるのではないだろうか。ここに中川家を知る鍵がないか。

告別式を請け負った会社は神田にある博善
http://www.hakuzen.co.jp/
というのは知っておるのですが、うん、確かに臭いぞ!

くぅ〜明日にでも国会図書館で新聞を調べたいのですが、木金土と全く身動きが取れない状況でもどかしいです。日曜は国会図書館はお休みかよ〜。

また、少々期待薄ではありますが、実家を通じて龍光の実家、新潟県鹿瀬の多宝寺の電話番号をゲットいたしました。

一両日中に電話して、もし話が通じるようであれば
 ・遺品にカセットはなかったか
 ・実家で中川家の情報がつかめないか
を確認したいと思います。

くぅ〜。
(つづく/2004.9.29.)

天覧奇術のカセットを探せ4

NHKディレクター氏からメール。弟子のアサダ二世氏が、「さらば愛しき芸人たち」「芸人という生き方 そして、死に方」で「天覧奇術のカセットを龍光さんが持ち歩いていた」エピソードを記した、作家矢野誠一氏に連絡を取り、

・昭和天皇の声の入った(!)天覧奇術のカセットは確かにあった
・確実に聞いた

という確認を取ったそうです。

しかしやはり矢野さんご自身にもカセットの所在はわからないとのこと。
やはり中川家か・・・・。

こうなりゃやるしかない!
どこまで話が聞けるかわかりませんが、父親や親戚を通じて、新潟の実家ラインから
 ・遺品にカセットはなかったか
 ・実家で中川家の情報がつかめないか
を追うぜ!

確かに天覧奇術のカセットはある・・・いやあった!

たくさんの人がアダチ龍光さんのことを取り上げられることにワクワクしていて、新事実が出てくる度にみんなで喜んでいる感覚がたまりません。
(つづく/2004.9.29.)

天覧奇術のカセットを探せ3

中川家への連絡先ですが、私の父、父の兄弟関連を当たりましたが、全く消息がつかめていないとのこと。

NHKディレクター氏の調査で、子供の無かった龍光は「養女を取った」という話がでで参りましたが、私自身も父親からの話で「養子だった」と思いこんでいました。私の父親も大変驚いていました。

つまり事実関係を整理すると、

 1.龍光が中川家に婿入りした
 2.子供が無いため養女を取った
 
と言うことなのでしょうか。

もしこの養女が嫁入りしてしまったとするとまた消息を突き止めるのはますます難しそうです。

龍光の実家筋に関しても父親を通じて確認してみました。

龍光さんが産まれ育った実家、新潟県の鹿瀬にある多宝寺は現在も龍光さんの弟の孫が住職を務め現存しています。私も親も多少の交流があるようです。

長男だった龍光さんの代わりに弟が寺を継ぎ、この弟の死後その子供が継いだそうですが、その子供も亡くなり、その奥さんは健在だそうです。

矢野誠一さんの本で、晩年アダチ龍光の名を入れた手品グッズがバカ売れして、莫大な印税が入って、その金で、実家の寺に鐘を進呈したというエピソードがありましたが、晩年は実家とも交流が
頻繁だったようです。

もしカセットが存在したとして、遺品として実家に戻ったという可能性も??
・・・ここは直接ご連絡するなり訪問するなりして、もう少し当たってみたいと思います。

(つづく/2004.9.29.)

2004年09月28日

天覧奇術のカセットを探せ2

昨日の続きです。

というか泥酔した状態で書いて、そのまま寝てしまって気が付いたら朝でした。忘れない内にその他耳にした情報をメモしておきます。

・天覧奇術の映像は、NHK保有のものも日本テレビ「おもいっきりテレビ」版も同一のソースでした。この時NHKは代表取材という立場で、独占的に撮影したそうです。しかし技術と話術が売りの龍光氏の演技なのに音声は録らなかったのは何故?

・映像は4分ほどのものが残っていて、「おもいっきりテレビ」で放映されたステージ上のシーンとは別のもう少し狭い場所での演技も収録されているとか。


・ディレクター氏は、ステージでの演技時演壇にパン時計の道具か小さく見えると仰ってましたが、私が持っている「おもいっきりテレビ」版では確認出来ませんでした。しかし天皇が「右っ!右っ!」と声を出したという伝説のシーン。この時天皇は2階席のステージから結構離れた席に座っています。パン時計を披露したとすると、もう一つの少し狭い場所で演技をしたのではという気がしますが、これは如何に。

・当日一緒に呼ばれた初代引田天功の演技も少し収録されている(これも見たい!)

・アサダ二世氏のコメントでは、当日は弟子のアサダ、龍一、光一の誰ひとり同行せず、ひとりで出掛けたという話でした。しかしステージでの演技時、龍光の後ろには、2人のアシスタントが立っています。「宮内庁の人?」とも思いましたが、1974年8月朝日放送「おーるど寄席」(フルバージョンは「ワッハ上方」で見れます。「おもいっきりテレビ」でも一部放送)の映像を見ると天覧奇術時龍光の向かって右側にいる人が、ここでもいます。一体誰?

(つづく/2004.9.28.)

2004年09月27日

天覧奇術のカセットを探せ1

びっくりしたなぁもう。
今日の昼間、某非民間の公共放送のディレクター氏より突然のメール。

>現在、マジックに関する教養・情報番組を制作しており、
>その中でアダチ龍光さんの天覧奇術のエピソードを紹介
>したいと考えております。

うぉ〜それは楽しみ。
で、有名なエピソードで、天覧奇術の時の録音カセットを龍光さんが大事にしていて、頻繁に人に聞かせていたという話があるのですが、そのテープがどこかに残っていないか、その他情報協力して欲しいという主旨でした。
「アダチ龍光さんのこと」をご覧いただいてメールいただいた模様です。

いやいやしかしそいつは面白い。
矢野誠一さんの本か何かで「ほとんどテープが伸びきっていた」という記述もで目にした記憶があるのですが、もしまだ存在するのであれば、私も是非聞いてみたいです。

でカセットの所在をちょっと考えてみました。

・婿入りした中川家。しかし龍光には子供がいなかったので持っているとすれば、 弟子でもあり養子でもあった方
・アサダ二世、アダチ龍一氏を始め現在も現役で活躍されているお弟子さん筋
・龍光さんととても親しくしていた立川談志氏

辺りに情報があるかもしれません。というか、私にはこういった皆様と接する機会はなかなか持てませんので、是非NHKのお力で新しい情報を得ていただければ、こんなにうれしいことはありません。

そんな内容のメールを返信いたしました。


そしてまた返事を頂戴いたしました。
早速アサダ二世氏に連絡を取ったそうで、取材要請にも快く応じていただけたこと。ちなみにアサダ二世氏は阿佐田哲也こと色川武大の弟でもあります。

しかし弟子のアサダ氏をしても天覧奇術のカセットの存在は知らないとのことで、謎は深まる一方です。

そんなこんなで、「一度電話でお話を」ということで恐る恐る電話。

現在製作中の番組とは「ものしり一夜づけ」(NHK総合:毎週火曜 午後11時15分〜11時44分/再放送 毎週木曜 午前1時45分〜2時14分)の来年1月4日放送のマジック、奇術特集の1コーナーだとか。聞けば年は私とひとつしか変わらない同世代。天下の某国営放送のディレクターにして、街頭パフォーマンスも行うセミプロマジシャンとのこと。

いやいや盛り上がる盛り上がる。

・アサダ二世氏が龍光のパン時計の演技の映像を持っている(フジテレビで放送されたものらしい)
・龍光の弟子として有名な龍一は既に死去、光一は音信不通
・弟子で男だと勝手に思いこんでいた龍光の養子は養女だった

だのすごい話がわんさか。

とにかく天覧奇術のカセットに関しては
 ・談志を当たる
 ・中川家筋を当たる
 ・カセットの存在を書いた張本人矢野誠一を当たる
の線で攻めるのがよろしいかと思います

中川家の連絡先は私の親戚筋から聞けるかも知れないと事前に父親から確認済みと伝えました。
しかし女性だとするとお嫁に入って姓が変わった可能性大で、果たして消息はつかめるのだろうか。

「同世代でアダチ龍光話でこんなに盛り上がってるって何か不思議ですよね」
そんなディレクター氏の言葉に
「私もこんな話が出来るなんて幸せですよ」。

びっくりしたなぁもう。

ついでに「ライブビート」とか出してくれないかな(笑)。

(つづく/2004.9.27.)