龍光さんのこと
和製手品、古く「手妻」「和妻」といわれる芸を現代に受け継ぐ藤山新太郎氏(日本奇術協会 副会長)と先週お会いをさせていただきました。
角川学芸出版の角川選書から今年秋刊行予定の昭和の奇術の歴史と人をテーマとした書籍の執筆のためアダチ龍光さんの、特に実家である新潟のお寺(多宝寺)との関係を整理したいとのお話でした。
角川学芸出版の単行本編集長のI氏と今回の出版企画の実現を進めたY氏(ご連絡いただいたのもY氏からでした)も同席。
藤山氏は、コミックバンド「スイング・ボーイズ」のメンバーで後に漫談家として活躍する南けんじの息子さんでもあり、幼少の頃から舞台に立ち、龍光さんとの関係はお父さんだけでなく、藤山氏も大変深いものがあります。
とにもかくにも本当にこの日は、貴重な時間を過ごさせていただきました。
私がいくら龍光さんに関して、本や資料で情報を追いかけることができても、藤山氏の口から語られるのは、長年そのそばで話を聞いたり、一緒に舞台に立ったり、楽屋でそばにいたりした当人の言葉です。
藤山氏の記憶力の明解さ、語られるエピソードの詳細さに驚くばかり。それが饒舌にキラキラと語られます(プロの芸人さんに対して失礼ですが・・・)。
全く伺い知れなかった龍光さんの姿や、これまで点だった知識がつながったり、肉付けされたり・・・本当に夢のような3時間でした。
お伺いした内容は一度整理したいと思います。
とてもとても書けない話もございますが・・・(笑)。
私のタスクは、龍光さんの実家である新潟のお寺(多宝寺)との関係。
龍光さんは、震災時をはじめとして、新潟に数回戻っているとされています。
内、1944年(昭和19年/48歳)には、空襲で家を焼かれて新潟に疎開し、村役場で戸籍主任として勤務していたと龍光さん本人も語っています。
20歳前後で勘当された龍光さんはこの時、実家の多宝寺に身を寄せていたのか?
勘当は解けていたのか?
それとも、実家ではないところに居を構えていたのか?
そして、公務員の仕事はだれが斡旋したのか?
この辺りが、はっきりしないのです。
さて。
私は丁度この3連休で実家に帰省をしたのですが、叔父に会う機会がありこの質問をぶつけてみました。この叔父は、若い頃2回ほど当時板橋にあった龍光さんの自宅に泊めてもらったことがあるということでした。
「はっきりしたことは言えないが・・・」
と前置きした上で、
「頻繁に出入りすることはなかったにせよ、決して実家のお寺と龍光さんの関係は悪くなかったはず。特に父親の天龍がなくなった後は、勘当は解け、数回新潟に戻った際も実家に身を寄せていたのではないか」
という見解でした。
これは藤山氏とお話しさせていただいた際も同様の推察をしました。
やはり新潟のお寺(多宝寺)に直接当たってみなければなりません。
しかしお寺の現住職は、龍光さんのご兄弟のお孫さんですし(以前お話させていただいた際も龍光さんの記憶は、幼少期のものでした)、兄弟である祖母も十数年前に亡くなっています。
直接情報を聞ける方がどんどん少なくなっているのがくやしいですし、だからこそ急がなくてはならないのです。
手紙を書くことにします。
ちなみにちなみに、ここで書いた、ギャラがたくさん入って多宝寺に釣り鐘を寄贈したという「アダチ龍光手品セット」のエピソード。
この手品グッズの販売元は任天堂だったという藤山氏の談がありました。
花札、トランプメーカーだった任天堂が「同じトランプでも何か付加価値を付けて売ろう」と商品化したのが龍光さん監修の手品ネタをセットにしたトランプ。
これが売れに売れたといいます。
さすがは任天堂。当時から目の付け所が違います。
これも任天堂広報に確認だな。
さぁ、終わりなき旅はまだまだ続きます。