はじめに
「アダチ龍光さんのこと」はここや、ここで2002年の春ごろからちまちまと書いてきた文章です。
私の身内で、芸事で唯一大成したと云われる手品師のアダチ龍光氏のことを追ったものであります。
何とはなしに始めた身内探りに、気が付いたら「いやいやこれはライフワークだ!」
と夢中になってしまいました。
何度か落とし前を付けたつもりだったのですが、新事実や資料がちらりほらりと集まるのをこまめに更新していきたいと思い、「なんだかWikiってやつが便利そうだぞ」と立ち上げたのが本コーナーです。
ずっとやりたいと思っていたのが、龍光さんの人生を時系列で追いかけることです。そんな「あちらを書き足しては、こちらを書き足し・・・」そんな作業にWikiはうって付けなのではと期待しています。
これまで書いてきたことと重複するところも多数出てくるかと思いますが、とにもかくにもはじめてみたいと思います。
情報をお寄せ願います
どんな情報でも結構です。アダチ龍光氏に関する情報をお寄せ下さい。
まずはメールで
info@tonreco.com
こちらまでご連絡いただけましたら幸いです。
出生に関して(1896年〜)
1896年(明治29年)7月20日、曹洞宗、多宝寺(現・新潟県東蒲原郡鹿瀬町)の第19代住職、阿達天龍と妻との間の長男として生まれる。
本名 一(ひとし)。
「あたしの生家は、多宝寺ってえお寺です。妙峯山多宝寺、鶴見にある総持寺が総本山、その末寺です。」(龍光談)*1
兄弟
長女 マサノ
長男 一(ひとし)→龍光
次女 ミヨノ
次男 操(ミサオ)→多宝寺20代住職
天龍、後妻、リイとの他の兄弟
長女 トキ
次女 キミ
長男 武男
三女 ムツノ
「そこの総領に本当は生まれたんだけど、8人兄弟いる、あたしはだけど、お寺さんにする気はなかったらしいな、親父は。おれもなる気はなかった。」(龍光談)*2
奉公時代
尋常小学校卒業後、中蒲原村松町にいた母親の弟の椎野家へ奉公に。
「そこの家、そこは菜種屋だ、それとね、セメントだとか、なんとかいっぱいやってましたよ。(中略)奉公に行ってしばらくしてから、酒、酒造りね、それであたしが酒造りのほうにまわったんだ。あたしは作るほうじゃなく、あの、番頭だから売るほうや。」(龍光談)*3
1914年(大正3年/18歳)
1回目の上京(家出)
「そんなくだらない酒売り仕事を19くらい(遁注・おそらく数え年)までやってましたか。どうも、こりゃね、あたしゃ、そういう商人というのは向かないね、田舎で叔父さんとこにいたってしょぅがねぇっていうんでね、そいで、その、いまでいう家出人だな、東京へ逃げてきちゃった。」(龍光談)*4
「田舎のこったから、どこの倅(せがれ)が東京までのキップ買ったっていっぺんにわかっちゃうでしょ、だから会津若松までのキップを買ってね、若松で降りて、いっぺん乗り換えて、それで東京へ出てきたわけだ。」(龍光談)*5
「(汽車賃の5円50銭は)姉(マサノ)があっちこっちから集めてきてくれたカネでしたけど、会津若松で時計買ってね、銀の時計、(中略)それ下げて東京へ着いた」(龍光談)*6
2回目の上京
この年に新津(新潟)−会津若松―郡山(福島)の開通した磐越西線の車掌の詰襟に白手袋という格好に憧れて、岩倉鉄道学校を志願し、上京。*7
1919年(大正8年/23歳)〜
木村マリーニに弟子入り。
役者時代、友人の女形、木村春夫に活動弁士になりたいと相談。春夫の兄貴が大阪千日前の映画館、敷島クラブで主任弁士をしていた木村紅葉。紹介状を書いてもらった。それが大正8年か9年。
しかし紅葉は、すでに荘六(マリーニ)と名を変えて弁士をやめ、魔術の道へ。龍光もこれにならう。1〜2ヶ月稽古して、浜松の歌舞伎座で初興行。 *8
最初の芸名は、アダチ荘一(荘六の一番弟子だから)。
木村マリーニ一座、4〜5人で奇術だけの興行。樺太、朝鮮、台湾にも。1回旅に出ると1年は掛かった。 *9
1922年(大正11年/26歳)
大阪から東京へ。
東京の深川「常盤亭」の席亭が元締めの東西会(東京の芸人と大阪の芸人合同の組織)に入る。当時26歳。「客に受けすぎて」10日でクビ。 *10
当時の奇術師は得意のネタひとつで商売していた中、龍光は20種類以上の持ちネタをとっかえひっかえ披露。
客からは大好評を得るものの、芸人仲間から「若造のクセに生意気だ」とねたまれた。
「世の中に芸人もずいぶんいるけれど、客に受けすぎてくびになった のは、俺くらい」(本人談)
高峰筑風(高峰三枝子の父)、神田伯山、都大夫、加賀大夫とで大阪で名人会開催。いろもので出演。筑風が「アダチ荘一なんて、名人の名前ではない」とアダチ龍光と名づける。 *11
1928年(昭和3年/32歳)
吉本で音曲をやっていた芸名、国野愛子(本名:中川八重子)と結婚。しばらく共稼ぎ。*12
八重子との結婚の際、中川家に養子に入る。
1932年(昭和7年/36歳)
12月、ある日の龍光の1日。吉本興業合名会社昭和7年12月11日出番表より。
「天五葵」「福島花月」「正宗館」をはしご。
*13
1938年(昭和13年/42歳)
- 11〜12月 わらわし隊(吉本興業(吉本興業部)が朝日新聞と共同で、日中戦争勃発後中国大陸に派遣された兵士を慰問するために結成した演芸派遣団、慰問団。:Wikipedia より)1938年1〜2月の第1回目に続く、第2回の中支那班に参加。同行者に、江戸川乱歩の生み出した名探偵、明智小五郎のモデルとされる講釈師、五代目神田伯龍がいた。他は秋山右楽・左楽、東五九童・松葉蝶子、松鶴家光晴・浮世亭夢若、荒川成三郎・玉枝、ミスワカナ・玉松一郎 、文の家久月・三遊亭柳枝、吉田奈良千代
1940年(昭和15年/44歳)
- 腸チフスで3ヶ月間大阪の桃山病院に入院。この時、昭和天皇に手品を教えるという1971年(昭和46年)の天覧奇術を予知するような夢を見る。
*14
- 12月 日本奇術協会(現・社団法人化)第1回集会に参加(於・目黒雅叙園)
*15
1941年(昭和16年/45歳)
- この年、日本奇術協会の会長に就任
●日本奇術協会 歴代会長
初代 松旭斎 天洋
2代 松旭斎 天右(初代)
3代 松旭斎 天洋
4代 アダチ 龍光
5代 松旭斎 天晴
6代 アダチ 龍光
7代 松旭斎 広子
8代 松旭斎すみえ
9代 北 見 マキ
1944年(昭和19年/48歳)
空襲で家を焼かれ郷里の新潟に疎開。村役場で戸籍主任として勤務。月給65円。*16
1945年(昭和20年/49歳)
人手が足りないと寄席に駆りだされる。落語協会に所属。当時円生、志ん生はまだ満州から復員してなかった。しかし当時は客入りに応じたギャラ制度。3日で10円ということも。*17
1948年(昭和23年/52歳)
- 日本奇術協会 永久会長に就任
1953〜54年(昭和29年/58歳)
1959年(昭和34年/63歳)
- 6月28日 松旭斎琴江改め2代目松旭斎天花襲名披露公演 出演
於 三越劇場
他の出演 松旭斎天洋・天海、松旭斎天遊、松旭斎天雷、松旭斎天芳、松旭斎天暁、マギー信沢、引田天功、島田晴夫、松旭斎良子、松旭斎天春、松旭斎広子、松旭斎天若、ダーク大和
*18
1965年(昭和40年/69歳)
- 12月18日 師匠、木村壮六(マリーニ)死去 享年74歳
*19
1966年(昭和41年/70歳)
- 1月31日に新宿末広亭にて牧野周一と柳家三亀松が芸術祭の奨励賞をもらった記念の演芸会で、龍光が司会を担当。*20
- この年か次の年(「なんでもこちらに越して来て十一年になるそうで・・・」(昭和53年1月号「新評」)*21)に東京都北区十条(北区中十条3の20*22)から東久留米へ引っ越す。引越の理由は、龍光氏の「健康をおもんばって」。西武池袋線東久留米駅から徒歩1〜2分。駅前商店街の真裏にあった建て売り住宅。階下6畳の居間には芸人が同居していたらしい。壁に三味線が飾ってあった。*23
1967年(昭和42年/71歳)
1969年(昭和44年/73歳)
- 1月6日「立川談志 第30回ひとり会」に出演(於・新宿紀伊国屋ホール)。談志と対談。
*27
1971年(昭和46年/75歳)
- 4月14日 宮内庁から天覧奇術出演依頼を電話で受ける。
*28
5月14日 天覧奇術出演
「文化庁から陛下の古希の祝いにとこの話を持ちこまれたときはうれしかったね。だって、奇術の芸人として認められたってえことなんだから。30万円でタキシードを新調してね、うん、靴から小物までね、そしていただいたご祝儀が2万円と紅白のまんじゅうに重ねの盃だったかな。」(龍光談)*29
「アタシは陛下と友達なんだ」
「17万円かけてタキシード新調して出掛けて、宮内庁のくれたギャラが2万円」
などと晩年までネタにしていて、一方でその話を聞かれると
「あれは5月14日」
とすぐに答えられるくらい名誉にしていた。昭和天皇の古希(70歳)を祝う会で、奇術界からは龍光と引田天功が招聘された。
会場は皇居内の桃華楽堂。
昭和41年(1966年)に香淳皇后(昭和皇后)のご還暦を記念して建てられた音楽堂で,建物の屋根は「テッセン」の花を模し,八角の外壁は華やかな陶片とタイルで彩られています。陶片には,有田焼,信楽焼などが用いられており,玄関正面の屋根の上には鬼瓦の代わりとして金色の雛人形が飾られています。
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/small/d13-01ph-12.html
「一番驚いたのはね、じゅうたんがぜんぜん違うんだ、じゅうたんが。普通のじゅうたんてえのは歩いたって堅いでしょ、向こうはモクモクなんだよ、こう羽根布団のようにさ。(中略)そんなところ、おれ、歩いたことねえもん、よろけたんだよ」(龍光談)*30
- 「天皇がタネ明かしを求めてきたらどうしよう」と悩んでいた。(アサダ二世コメント)*31
宮中に向かう道中
「池袋からタクシーに乗りました(中略)。
『宮中へいくんだ』と。若い運転手は知らねぇんだアダチ龍光というものを。そして坂上門へ入って右へいきますと宮内庁でしょう。『ここへ入りなさい』といったら、ビックリしましてね『こんなところ入れねえ』って(笑)。」(龍光談*32)
出席者とステージの様子
「天皇陛下に皇后陛下に皇太子に美智子妃殿下に、それからあの常陸宮様に華子さんと親戚の皇族、宮内庁の役人170〜180人、それで、一番前のほうに、天皇陛下がずっと、こう、前にテーブル置いてね、そいで高いんだよ天皇陛下のおいでになる場所は。段々を3段作って、その上にいる。」(龍光談*33)
当日のプログラム
吉行淳之介・・・(略)アダチさんだけですか、宮中へいったのは。
アダチ龍光・・・いや、引田天功もいった。
吉行淳之介・・・ほかにどういう方がいたんですか。
アダチ龍光・・・二人きり。奇術二題。二十五分間。
*34
披露した奇術1
・ハンカチを使ったマジック
小さなハンカチが大きな旗のような布に変わり、そこに「天皇陛下 古希奉祝」と天皇の誕生日を祝う文字が記されている。
披露した奇術2
・パン時計
明治時代から寄席などでよく演じられていたマジックとされ、戦後は龍光が十八番として演じていた。
手品の解説
スライスしていない食パンが1斤、お盆に乗って、テーブルの上に置いてあります。観客から腕時計を借り、それを小さな木製の箱に入れ、終始、観客から見える場所に箱を置いておきます。
食パンを取り上げ、どこにも切れ目のない、完全な食パンであることをよく確認してもらいます。ナイフでパンを二つに切り、観客にどちらか好きなほうのパンを指定してもらいます。選ばれなかったパンは、さらにうすく切って、中には何もないことを見せます。
選ばれたほうのパンに、ナイフを突き刺したまま、もう一度お盆の上に戻します。
時計の入っている箱を開けてみると、中から時計が消えています。ナイフの刺さっている食パンを取り上げ、ナイフを抜いてからパンをよく観客に示します。ナイフの切れ目以外、どこにも穴などははありません。 そのパンをむしって行くと、中から観客から借りた時計ができます。
http://plaza.harmonix.ne.jp/%7Ek-miwa/magic/something/bread.html より
パン時計の道具は著名なマジックメーカー「ミカメクラフト」社から発売されてた。解説書は少ないと云われていて、このミカメクラフト社製の道具についているマニュアルは使い物にならないとか。真にこの手品を理解する解説書としては、高木重朗氏の『不思議』(マジックマガジン社発行 Vol.5 No.18:1989年夏)があるそう。
古い時代では、そういう左右を選ばせる手品をした時は、絶対に陛下は発言をされなかった。国民が、陛下の言った方に一斉に流れるからね。
でも、龍光がやった時は、宮内庁の変化もあったのか、元々奇術がお好きな陛下が「右!」って仰った。「それからアタシは陛下と友達なんだ」って営業でよく言ってた。(アサダ二世コメント)*35
「右から出しましょうか?左から出しましょうか?」
ところが会場はシーンと静まり返ったまま。天皇が返事しないのに、周りの侍従が声を出すわけにはいかない。
庶民が天皇と口をきくなどありえない時代。しかしそこで龍光「天皇様どちらにいたしましょうか?」と指名をした。
天皇はおもむろに立ち上がり、一言「右」。
龍光は右側のパンから時計を取り出した。
天皇は誰より率先して拍手をし、他の観客もそれに続き、それまでの重苦しい空気から、会場は拍手に包まれた。*36
「演芸場なんかだと(中略)右だ左だ、ワンワンガヤガヤいうやろう。ところが、ここじゃ天皇陛下がしゃべらなきゃ誰もしゃべらねえんだから。シーンとしてたよ、しばらく。(中略)それで、あたしが「天皇様、どちらにいたしましょうか」っていったら、陛下がお立ちになって「右!」いったよ、大将は「右!」って。」(龍光談*37)
天皇の指定で右の方のパンに時計を仕込み、それから時計を貸してくれた侍従のの目の前に移動。
「この中に時計が入っておりますけれども、どっか無理に入れりゃ穴があきます、どっか時計が入ったような形跡がありますか、っていったら天皇陛下、またお立ちになったよ、見にくいから、上の方にいるから。」(龍光談*38)
パンを持って客席へ上がっていく龍光。
「ただいまの時計が陛下ご指定のパンの中に入っておりますが、陛下どっかの時計の入りましたような形跡がありましょうか、っていったら『ありません』。では、ご覧下さい、こん中から時計が、といって陛下の目の前でお出ししてみせた『はあっ』っていってたな、パチパチと手をいただいた。」(龍光談*39)
披露した奇術3
・トランプの奇術
トランプをよく切って客に1枚ずつ引かせ、そのカードを当てる手品と思われる。
天皇陛下には一番最後に引いてもらおうと思うが・・・・。
「宇佐見侍従のほうがね、どうぞ、天皇陛下のところへは、先生、一番終いに持っていくのはうまくねぇ、っていうんだよ。だから天皇陛下のところへは一番先に持っていってくれって、だから演芸場でやる順序と違うんだ。」
「天皇陛下のお持ちのトランプはダイヤに関係がありますが数字じゃありません、といってね、模造紙をたたんで王冠をこしらえて頭にかぶってね、ダイヤのキングってぇ形を演り『これでしょう』と当てる。」*40
天皇の反応、会場の反応
「とにかく大変だよ、天皇陛下が手をたたけなきゃ誰もたたかないよ、陛下が(手をたたくまね)こうやると、一斉に手をたたきますよ、パーッと、万雷の拍手、ねっ。とにかくちぐはぐだから、最初はどうしても演りづらかった、演るほうとと観るほうの呼吸が合わないんでね」(龍光談)*41
本番の終了後、侍従より「天皇からお言葉があるから待つように」と言われる。
龍光はタネ明かしを求められるのかと思ったという。
天皇からかけられた言葉は、
「今日は色々たくさん面白いものを見せてくれてありがとう。これからも健康に注意をされ、芸術のために精進されることを望みます。」*42
「えっ、天皇陛下の反応? いや、驚かないですよ、感心して見てござる。あんた方みたいにね、その、ネタ見とどけてやろうなんて気はひとつもないんだからね。」(龍光談)*43
当日一緒に出演した引田天功(初代)に関して
「いっちゃ悪いが、一緒に行った引田天功は評判になんなかった。演目(だしもの)が悪かったんだよ。
あの、上からな、ノコギリが、こう降りてきてな、あの、身をかわすようなこと、天皇陛下の前で演ることと違うと思うんだ。(中略)その、いわゆる、その場に合うようなことを演るのが商売人なんだね。(中略)いや、いけないっていう規則はないよ、だけど、そりゃあ奇術を演る芸人(ひと)の心得だよ、引田天功は、そういう芸人の細かい心くばりがなかったんだ。」(龍光談)*44
映像、音声
・天覧奇術の映像は、NHKの代表取材で独占的に撮影。しかし音声のみ。
・映像は4分ほどのものが残っている。
・同じく当日出演した初代引田天功の演技も少し収録されている。
・天覧奇術には弟子の龍一、光一が同伴してステージに立つ。
・その際、龍一がカセットを回していた。
・作家矢野誠一氏への取材では、カセットの中身は天皇の「み、みぎっ!」などという声までは聞き取れず、天皇が拍手→そしてみんなが拍手というシーンが理解できる程度の録音のよう。
(2004.9.28.NHKディレクター氏談)
・天覧奇術の際のパン時計の演技の映像は残っていないと思われるが、アサダ二世氏がフジテレビで「パン時計」を演技する龍光の映像を保有。2005年1月4日NHK放送「ものしり一夜づけ」でそれと思われる映像が使われた。
1971年その他
12月1日(水)NHKの音楽バラエティ「ステージ101」にゲスト出演。
1972年(昭和47年/76歳)
- 1月17日 三味線漫談家、玉川スミの芸術祭優秀賞受賞を祝い、発起人のひとりとして「芸術祭優秀賞・受賞祝賀会」を催す。(於・新橋の第一ホテル。他の発起人は南部圭之助、玉川一郎、牧野周一、春風亭柳橋、古今亭今輔など
右から牧野周一、龍光、玉川スミ、春風亭柳橋、古今亭今輔、玉川一郎
*45
- 7月25日 萬隆寺に中川茂周の墓を建立(後に龍光自身が入る墓)
- 11月3日 勲五等双光旭日章 叙勲
1973年(昭和48年/77歳)
- 「アサヒグラフ」2月16日号、連載「わが家の夕めし」に掲載。東久留米の自宅で屋恵子(本文:八重子の誤り?)夫人と。
「まあ、なんといっても、粗食が一番だね、アッハッハ。」(本文より)
この日の献立は、サバのうま煮、トリのうま煮、けんちん汁、アスパラガス、ブロッコリー
1974年(昭和49年/78歳)
- 1月1日TBS系 14:00-16:00「初笑いうるとら寄席」出演。他の出演は、三波伸介、伊東四郎、三遊亭円楽、Wけんじ、レッツゴー三匹、てんやわんや、米朝、唄子*46
- 4月? 昭和天皇73歳の誕生日を祝う御前口演 出演。他に三遊亭円生、宝井馬琴、引田天功が招聘。
まずは、ステッキを使った芸とトランプネタを黙ぁっ〜て披露。客席に「どぉだ!」と言わんばかりの堂々とした態度。ひとしきり拍手が鳴りやむと、堰を切ったようにしゃべり出す龍光。
「どうもどうも東京におりますもので。大阪は30年振りでしてね。 でもね、その前は20年位大阪にいたんですよ。当時は若かったで すなぁ」
と、先ほどの「どぉだ!」とは一転、朴訥とした新潟弁トーク。この緩急がたまらない。会場大爆笑。私も可笑しくってたまらない。
「じゃあ、今日はご家庭で楽しめる簡単な手品を3つやります」
と
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・赤白の色が入れ替わるひも
・先からお金が出てくるせんす
・はさみで切る度に大きくなる紙のわっか
を披露して、なんとひとつひとつタネ明かしをするアグレッシブさ。確かに「先からお金が出てくるせんす」なんてハンズでも売ってる面白グッズみたいなネタなんですけど。一般には「成金センス」って言うらしい(笑)。
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「これなんか明治時代からある手品ですけどね、先から出てくるお金 を50円玉にすると昭和の手品になるの」
なんてなMCもたまらない。約8分の演技を放送。
http://www.tonreco.com/ryukou/9.htm
※フルバージョンは大阪は難波にある「ワッハ上方」こと大阪府立上方演芸資料館の演芸ライブラリーで見ることができる。
1975年(昭和50年/79歳)
- 1月3日 第3回放送演芸大賞 奇術部門 受賞
*47
- 5月26日 芸団協主催第1回芸能功労賞 受賞
*48
その辺の話は地方紙「新潟新報」2004年6月20日の連載「幕下りるとき」の龍光さん特集でも真任さんが取材に答えている。
記念式典に出席、トランプ奇術などを披露した。
実家に泊まり、「おやじと一緒に喜んで、ねじりはちまきで肩を組んで飲んでた」
- 「婦人画報」7月号 連載「着道楽」 に掲載。浅草松竹演芸場にての取材。
「着道楽、ねェ・・・。ンまぁそうですなぁ。ただし、私のは経済的な道楽ですが・・・。一揃いの洋服を三通りに着ますから。まずベースは黒の上下。それに正装用のチョッキと普通のチョッキ、つまり四つ揃いを作るわけです。このチョッキと蝶ネクタイか普通のネクタイかで、舞台の時と普段とを着分けるわけで」(本文より)
1977年(昭和52年/81歳)
- 5月 上野・鈴本演芸場 五月上席 出演
*49
- 11月20日 日本奇術協会主催「日本奇術協会創立40周年記念公演」出演
於・浅草公会堂
席 A1800円 B1500円 C1200円
*50
1978年(昭和53年/82歳)
脳出血で倒れる。
1979年(昭和54年/83歳)
一時復帰後、11月にテレビ出演。「レコードとハンカチ」ネタの映像が残っている。
(最後の舞台での演技???)
*51
1981年(昭和56年/85歳)
正月に日本放送 芸術大賞「功労賞」受賞でフジテレビに出演したらしい。
1982年(昭和57年/86歳)
急性心不全にて東久留米病院で1982年10月13日午前8時15分没。
享年86歳。
戒名は龍光一道信士。
葬儀は、神田にある博善が担当。
10月30日 日本奇術協会葬(葬儀委員長 松旭斎広子、於 浅草萬隆寺)
*52
*1 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*2 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*3 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*4 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*5 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*6 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*7 註:現・現岩倉高等学校。明治30年「私立鉄道学校」として神田錦町に開校。明治36年に「鉄道界の恩人」岩倉具視(私たちの世代には「500円札の人」として有名ですな)の名字を校名に冠す。昭和23年、泰東商業学校を統合し岩倉高等学校に。現在も鉄道・運輸業界を中心に優秀な人材を送り出している。現在は台東区上野にある。
*8 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*9 註:「婦人公論」1973年3月号「私自身のタネあかし」
*10 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*11 註:「芸双書4 めくらます−手品の世界−」編者/南博、永井啓夫、小沢昭一 (白水社) 1981年刊
*12 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*13 Yahooオークション2008年1月出品物より。
吉本興業が経営していた全ての寄席の出演者と時間割を記した出番表(縦93僉濂38.5僉
掲載されている寄席は「南地花月」「花月倶楽部」「天満花月」「三光館」「天五葵」「福島花月」「芦辺館」「新世界花月」「正宗館」「角座」「三友館」「南陽館」「京都富貴亭」「長久亭」「中座」「京極花月」「笑福亭」「浅草昭和座」「浅草萬成座」「神田花月」「横浜花月」。
*14 註:「小説サンデー毎日」1975年3月号 吉行淳之介「苦心研究研究苦心対談」/吉行淳之介「躁鬱対談」(毎日新聞社/1975年)より
*15 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*16 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*17 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*18 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*19 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*20 註:山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』(東京堂出版)
*21 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*22 註:「アサヒ芸能」1966年8月21日号「吉行淳之介対談 連載47 タネも仕掛けも変わります」より
*23 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*24 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*25 註:DVD「笑って!!笑って!!コミックマジック大集合」(コロンビアCOBA4597)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000ICLNQ0/theworldofton-22より
*26 註:DVD「笑って!!笑って!!コミックマジック大集合」(コロンビアCOBA4597)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000ICLNQ0/theworldofton-22より
*27 註:立川談志「ひとり会」落語CD全集 第20集(コロンビア COCJ33550)に収録
*28 註:「小説サンデー毎日」1975年3月号 吉行淳之介「苦心研究研究苦心対談」/吉行淳之介「躁鬱対談」(毎日新聞社/1975年)より
*29 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*30 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*31 註:2005年1月4日NHK放送「ものしり一夜づけ」
*32 註:「小説サンデー毎日」1975年3月号 吉行淳之介「苦心研究研究苦心対談」/吉行淳之介「躁鬱対談」(毎日新聞社/1975年)より
*33 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*34 註:「小説サンデー毎日」1975年3月号 吉行淳之介「苦心研究研究苦心対談」/吉行淳之介「躁鬱対談」(毎日新聞社/1975年)より
*35 註:「笑芸人vol.7」(02年7月刊/白夜書房より
*36 註:2005年1月4日NHK放送「ものしり一夜づけ」
*37 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*38 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*39 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*40 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*41 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*42 註:2005年1月4日NHK放送「ものしり一夜づけ」
*43 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*44 註:「新評」1978年1月号「人間模様・喜劇人たち」より
*45 註:「こけつまろびつ人生」(玉川スミ/善文社/1995年)より・資料提供:S江様
*46 註:「昭和のテレビバラエティ」(高田文夫監修/太田出版/89年)より
*47 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*48 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*49 註:アサヒグラフ 1977年6月3日号「上野・鈴本演芸場から(四月下席/日本芸術協会 五月上席/落語協会)」
*50 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
*51 註:DVD「笑って!!笑って!!コミックマジック大集合」(コロンビアCOBA4597)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000ICLNQ0/theworldofton-22より
*52 註:社団法人日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」より
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