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2010年09月29日

奇術師 伊藤一葉のこと

「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)でメインに取り上げられる四人の奇術師の中で、お恥ずかしながら正直もっとも馴染みが薄かったのが、第2章の伊藤一葉でした。

第1章の天功、第3章の龍光はひとまず置いておくとして、第4章の島田晴夫は、天功ほどの派手さはないが、その確かな技術や「世界の」と形容されることが多いことから、その活躍や存在の大きさを記憶していました。

しかし、伊藤一葉は写真で「この人見たことかあるな」と感じる程度(しかもダーク大和さんと混同してました)。流行語となったという、奇術を演じた後にいうセリフ「何かご質問はございませんか?」も、あまり印象に残っていませんでした。

2006年発刊の日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」の奇術師9人のバイオグラフィー「奇術人」にも一葉は掲載されていたんですがね。。。全くもってお恥ずかしい。

一葉は昭和40年代半ばから50年代はじめにテレビタレントとしても全盛を迎えたそうです。伊藤一葉をリアルタイムで記憶するには、私は生まれるのが遅かったかもしれません。と、ともに伊藤一葉の活躍期間が短すぎたのかもしれません。

ただ、それを云えば、龍光さんの活躍だって私は見た記憶が全くないのですが(龍光さんが「テレビで活躍した奇術師兼テレビタレントの元祖」と云われても、まだ今ひとつピンと来なかったりします)、この文章のたたきを書いている途中、Twitterで

 電車内で伊藤一葉に関して書きはじめたら、熱くなってとまらない。

とつぶやいたら、すかさず

 「何かご質問は?」の人ですよね。ナツカシス。

とコメントRTが。

テレビタレントとして輝いた期間は短かったのかも知れませんが、ある年代以上の見る人に強烈な印象を残した方であるのは間違いないでしょう。

さて。
あらかじめスターとなることを約束された星のもとに産まれたと言っても過言ではない天功との対比が本文では多くなされます。

一葉は、父親が興行師であったことから贋天勝一座(飽くまで「にせ」天勝一座。一葉が所属したのは松旭斎天佐・天勝一座。日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」には「ご存じ、元祖にせ天勝」の記載が(P126)。本書で語られる本物松旭斎と贋松旭斎との大らかな交流は実に微笑ましいのです)で働き、裁判官試験を受験していたにも関わらず、一座の穴埋めで奇術師となります。

一座の巡業中に裁判官の合格通知が届いたり、「自分は、本当は小説家になりたい」(一葉は樋口一葉から取ったそうです)と口にしていたと言いますから、根っから奇術師を志した方ではないようです。

その迷いが演技にも表れていたのかもしれませんし、根が明るいとは言えない性格とその生真面目さで、演技からどうしても地味さが拭いきれなかったようです。

本書では「押しの天功、引きの一葉」と記されますが、その引きの演技が活かされるには、「何かご質問はございませんか?」のキメぜりふの発明(発見)を待つまでしばらく掛かりました。

この「何かご質問はございませんか?」でテレビタレントとしても一世を風靡しますが、それから間もなく一葉に健康面での不具合が出ます。

もうとにかくその生涯がもどかしいのです。気が付くと一葉にどんどん感情移入してしまいました。
筆者の藤山氏も「やっと『引きの一葉』が幅広く活かされたはずだったのに・・・」という思いを強くこの章に込めていることが伝わってくるのです。

そんなことを思いながら、蝶ネクタイに黒ブチメガネ、ステッキを持って知的な笑顔をこちらに向けている写真や、日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」のP129に掲載の桂三枝(オヨヨの口をしている)やダーク大和さんと並んだ堂々と落ち着いた表情やたたずまいをした写真を眺めると、「ちゃんとこの人の活躍を見てみたかった」と強く感じます。

筆者の藤山氏が引田天功に続く章で伊藤一葉を取り上げたの理由が、ページを読み進めるごとに理解出来た気がします。

【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと

2010年09月26日

「タネも仕掛けもございません」読みはじめ

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この土日で大きな書店で買いに行こうと思っていた「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)が、金曜の夜帰宅するとポストに。角川学芸出版からお送りいただきました。しかも藤山新太郎先生の直筆のお手紙付き!感激です。

アダチ龍光さんの章はゲラ段階で 拝見をしておりましたが、こうして1冊の本としてまとまると、まったく味わいが違って来るのが不思議。

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ゲラ段階では掲載がなかった写真には、昭和29年頃撮影された私の祖母(龍光の腹違いの妹)宅での集合写真が掲載。こちらは、2006年に日本奇術協会創立70周年記念誌「七十年の歩み」刊行時に提供させていただいたもの。
この写真は私も大好きです。


そんな訳で、わくわくしながら冒頭の「はじめに」そして第1章「地獄極楽の狭間を生きたイリュージョニスト、引田天功」を読んでいるところです。

続く第2章では伊藤一葉、第3章でアダチ龍光、第4章で島田晴夫と計4人の昭和の奇術師に焦点を当て、最終章では昭和の奇術師(史)を戦前の松旭斎天勝らの大一座での奇術、寄席演芸での奇術の系譜、古典奇術「手妻」を現代に伝える流れ、そしてナポレオンズ、マギー司郎、Mr.マリックなどテレビで活躍する奇術師まで総括しています。


個人的に一番楽しみだったのが、第1章の引田天功(初代)の光と影、虚と実。

小さな頃「木曜スペシャル」での大脱出シリーズを手に汗握りながら見ていたし、天功監修の小学館入門百科シリーズ「手品・奇術入門」は何度読んだかわかりません。(lilliputさんのサイトに書影あり。私が持っていたのは、第2版19刷の方。第2版32刷以降の初代没後は2代目が引き継いでるんだ、へぇ。)

あの涼しい笑顔。引田天功はホントかっこ良かった。大好きでした。
でも、何かモヤモヤっと実体がつかめないイメージが強かった。そして亡くなってしまった・・・・あれから30数年経って、それが何であったかが、はっきりわかった気がします。

奇術の確かな腕もある。
あの涼しい笑顔、スマートな天性の魅力もある。
一級のスターになりながらも、常に追随する後輩の存在や、映画スター、テレビスターに張り合うよう、自分を大きく大きく見せようとしていた。それが時に輝いて映ることもある、時に空回りをしていた。そしてだんだんと空回ることが多くなり。。。でもこういう生き方もかっこいいかもと思えてしまいます。すごい人間くさい。

(ギャラ2億円で連日出演した大阪万博の下りはちょっとすごい。これを読んでからこのスライドショー動画「EXPO'70 電力館」の0:40〜1:15あたりのスナップ写真を見ると、この天功の自信にあふれた表情にいたたまれない気持ちになってしまいます。)


引き続き読み進めて、自分なりに書き残したいと思います。
藤山氏の文章は昭和の奇術師の人、芸を語りながら、途中そのルーツとなる世界のマジシャンや映画、天一、天勝、そして手妻へと話が膨らんで行くのがまた快感なのです。

これは名著であります。

【関連コーナー】
アダチ龍光さんのこと


2010年09月17日

アダチ龍光さんのこと


書影も掲載!いよいよ発売迫りますね。

「タネも仕掛けもございません 昭和の奇術師たち」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)

アダチ龍光さんの項でちょっぴりご協力させていただきました。龍光さんのバイオの定本となる一冊です。

「アダチ龍光さんのことwiki年表」を更新。1961年(昭和36年)の1月1日〜10日 第196回東宝名人会 出演に関して追記。三平もいる!志ん生もいる! 

前から気になっていたので、設定見直したらiPhoneでも読めるようになりました。失礼いたしました。

そしてそして。
「熊本日々新聞」のサイト「講釈師一代 血涙修業伝」(講談師:宝井琴調)の文中にある、新宿末広亭での、師匠馬琴、落語・雷門助六、浪曲・三門博、奇術・アダチ龍光、漫談・牧野周一、漫才・松鶴家千代若、千代菊などが出演した名人会っていつの開催だろうか?
牧野周一の晩年の舞台らしく、この出演から「数カ月後、先生の訃報が伝えられました」とある。
牧野周一は1975年5月3日没だから、1974年か1975年だろう。

詳しい日付が知りたいのです。

2010年09月12日

2010年9月11日

大切なものを守るためには、何かを貫くためには、自己犠牲が必要な時がある。そんなことをことを教えてもらったのは何年前だろうか。

正直、当時は全く理解ができなかった。自己犠牲?私を殺す?オレがオレがとどう貫けるか、貫けてなんぼだろうと思っていた。その時彼は「自ずとわかるさ」という顔をしていた。

あれから今。目的を果たせるなら、いくらだって自分を殺せる。

君を守るためだったら、どんなことだって我慢出来る。

そういうものがたくさん持てるようになったかもしれない。

2010年09月07日

9月6日(月)

複数のものが組合わさった後の全体像を誰も見据えないのだろうか?
想像力の足りなさ? 想定力の足りなさ?

こだわりこだわりというが、こだわりの場所が根本的にずれてしまっていてはまったく余計なものだ。

思いつきやひらめきなんていらない。
当たり前にちゃんとしたものを作り上げることの方にこそ、私はこだわる。


外からの刺激を受けにその場に来た以上、これまでの自分の価値観とは異なる情報が目や耳から入って来ることを素直に受け入れよう。「これは合わない」と直ぐに放り出して目や耳を遮断してしまっては、何のためにその場に来たのかわからなくなる。

あら探しや評論家になったところで何ひとつ自分は変わらない。
異物を消化しろ。

2010年09月05日

9月5日(日)

メインの携帯が壊れたようだ。充電池側のはダイヤル(ダイヤルって変だな。電話番号を押したりする方)とかは、ちゃんと動いているみたいだけれど、液晶画面側が、うんともすんとも言ってくれなくて、何を操作しているかがわからない。

電話は掛けられるみたいだけれど、相手の耳を当てて音声を聞くのは液晶画面側が付いた方なので、こちらが機能しなければ、会話が出来ないではないか。

修理に出すの面倒臭いな。





伊東の朝。泊まった小さな民宿「こまどり荘」は、おかみさんのキャラと、朴訥としたご主人の作る新鮮な魚を使った料理が売り。

源泉かけ流しの温泉も、湯上がりしばらく身体のほてりがおさまらない。でもそれが心地よくて、昨日から3回は入った。

午前中、新井遊泳場とかいう岩場の浅瀬で磯遊び。シュノーケリングの準備をしてくればよかった。海の中をのんびり見たかった。

ひとつの岩にカニのがたくさん集まっていて、波の変化で、色々な動きをするのを、ぼーっと眺めていた。カニは気性が荒くて、縄張り意識が強いんだな。

駅に戻って、熱海へ移動。屋内プールとスパ施設でしはらく遊ぶ。上がった後のビールを楽しみにしていたのに、ラストオーダー後と云われてがっかり。

バスで熱海へ戻り、帰路。大きな混雑も無く、家族で車中小さな酒宴をしながら、帰宅。

楽しかったがさすがに疲れた。日焼けで背中や腕が痛い。

妻がしきりに「夏が終わった」「夏が終わった」という。あんなに連日暑い暑いと参っていたのに(いや、まだ今もか)、確かに何だか少し寂しい気分になって来る。Doors"Summer's Almost Gone"を聴こう。

また明日から嵐のような毎日が続きそう。少し頭がこんがらがっていたけれど、それがほぐれてきっと上手くやれそうな気持ちになってきた。



怒りのきっかけは様々かもしれないが、その沸点があまりに低いと、相手はそのきっかけに怒っているのに、一方はその沸点の低さがおかしいと注意して、永遠の平行線をたどる。疲れるからどちらかが飲み込まなきゃ。それはきっといつも僕の方なんだろう。

9月4日(土)

「無茶しているな」とか「しんどいな」という時期に、決まって夜中ふくらはぎがつって猛烈な痛みに目を覚ます。あれは一体なんなんだろう。

昨日、というか、今朝家に帰って数時間寝たらまたそれが起こった。ふくらはぎの筋が今日一日ずっとおかしくて痛い。

今朝、睡眠数時間で妻に起こされた。いつもだったら断固拒絶するのだけれど、今日の起こし方は何だか上手で、気がついたら伊東へ向かう電車の中にいた。

数日前は私の誕生日だったのだけれど、そのお祝いに今日まで内緒で宿を予約していたらしい。

昨日教えてくれたら、「完徹なんて無茶しなかったのに。。。」と単純に思うけれど、そういうところが彼女らしい。でも、もし今朝私が起きるのを断固拒否していたら、どうしていただろう。

伊東に着いたのは4時近くで、地ビールをラッパ飲みしながら海岸線を歩いて宿に入って、お風呂に入って食事。娘の相手をしたり、ご機嫌とったり、こちらが不機嫌になったりで気がついたら起きているのは私だけになってしまった。

でも、お陰で少し深呼吸して、気持ちに冷静さが持てた気がする。

きちんと妻にお礼が言えなかった。こういう時になんだか察して気配りをしてくれる。